かつて感動した両親の話を再考して、ちょっと考え直した話。
鬼怒川で氾濫がおきたとき、一軒だけ流れなかった家が多くの人を救って話題になった。父はある大災害のときに倒壊しなかった家に感動し、その工法を仕事に取り入れる決心をした。そしてモデルハウスも兼ねて、まずその工法で自宅を建てた。
いくらか知らないけれど、かなりのお金がかかったらしい。なんでも勝手に決めてしまう父もさすがにこのときは妻に話す気になったらしく、後だしではあったけれど三人目の妻であるわたしの継母にこう言った。
「この仕事が失敗したら、会社も家も土地もぜんぶとられる。ぜんぶなくなる。おまえ、それでもいいか」
「だからあたしね、『それでもあたしひとりくらいは食べさせてくれるんでしょ?』っていったの。そしたらあの人、『ああ、そりゃおまえひとりくらいは食わせていくよ』っていうから、『じゃあいいわ。やりましょう』っていったの。『ダメだったら屋台でも引いていきましょうよ』っていったのよ」
継母はやり手だ。両親が焼け野原に開き、ビルにまでした店を受け継いで切り盛りし、見事バブルで売り抜いた、それが父の三人目の妻である。
しかし継母は父が一世一代の博打を打って新規事業をはじめるといったとき、自分の経済力と経営手腕をおくびにも出さず、夫のあとについていくという姿勢を見せた。女は男を立てるもの。男の顔を潰してはいけない。継母のこうした昔かたぎの「女らしさ」は父の気持ちを引き立て、大いに励ましてきた。
わたしだったら「そのときはわたしも働く、心配しないで」といってしまうな、と思った。実母だったら「そのときは私があなたを養うわ」といいそうだ。でもそれでは父のプライドが傷つく。父は自分が養ってやらなければならないか弱い女子供を守る強い男でありたいと思っているからだ。
たとえ望むほど強くなくても、「あなたも弱いところのあるふつうの人ね」なんていってはダメ。いわなくても態度に出したらいっているのと同じ。夫が外でどういわれようと、妻だけはあなたは世界一強くてたくましい人、世の中を知っている頼もしい人だといってもらいたい。妻のヒーローでいることで夫は元気を取り戻すのだ。大丈夫、あなたならできるわ。そう信じてもらいたいのだ。
わたしは当時この話をとても美しく感動的なものだと思った。
実母からダメ人間の見本のようにいわれていた父が、継母から愛され、敬われているのを見るのは悪くなかった。継母はすごい。わたしもまだ見ぬ未来の夫をこんな風に信じてついていける妻になって、夫婦仲良く暮らせたらいいな。当時わたしはそんな風に思った。
幻想の共有
父は男らしさに恵まれていた。父の世代が提示する理想の男らしさを満たす条件を、父はいくつも持っていた。肉体的にも経済的にもそうだったし、「クレイマークレイマー」が一世を風靡し、「嫁に逃げられる」がマイナス要因になる時代をすぎてから離婚したこともそうだった。女にもモテた。子供にも恵まれた。
脳梗塞で半身不随になったときはちょっとやばかった。肉体的な強さは父の「男らしさ」の際立った点だったからだ。しかし父は舌を自力で動かせなくなり、話も食事もひとりでできなくなったときも、病人扱いを断固拒否して「男らしく」あろうとした。手を出すな。父は身振りで妻を制してリハビリに打ち込んだ。そして驚異的な回復を見せた。
継母はそんな父を全面的に支えた。「かっこつけなのよね、あの人」「でもあの人のそういうところ、あたしほんとに尊敬する」。
いい話である。父がきついリハビリに立ち向かい、孤軍奮闘したことをわたしも立派だと思う。しかし、もし父があのとき「男らしさ」を損なうような障害を負っていたらどうなっただろうとも考える。
「男らしさ」が至上命題の文化ではそういう場合、周囲の努力によって幻想を共有することになる。つまり男性が引き続き強くあるために、女性は男性より頭が悪く、社会的な地位が低く、力も弱くて意気地もないというポジションに積極的におさまることが要求されるのだ。
上げて下げてのバランス調整
むかし家族でキャンプにでかけることがあった。母と釜戸を作り、火を起こす。うれしくなって父を呼ぶ。父は不機嫌だ。父は「どうやって火をつけるの?」と聞かれながら、あれもこれも教えてやりたいと思っていたのだ。
「おまえはよく本を読んでいるくせにそんなことも知らないのか」とよく言われた。答えられない質問をするのは父の顔をつぶすからダメなのだ。中学生くらいのとき「大人になったら車の免許をとりたいな」と何気なく話して張り倒されたこともあった。女が免許をとりたがるなんて生意気なのである。
この話をしたとき継母は得意げにいった。「私は車なんて運転したくない。『免許なんてとらなくていい。俺が迎えにいくんだからいらないだろ』っていつもみんなにいわれたわ」。
自分で運転しなければならないということは、運転してくれる男がいないということ、あるいはタクシー代を出してくれる男がいないということで、女としては恥なのである。
これらの幻想を積極的に共有し、役割を担おうとするのが男らしさ、女らしさの正体だろうとわたしは思う。*1これが上手く噛みあって、なおかつ現実と調和していれば生産性が上がる。しかしこの役割分担は性別でわけなければ成り立たないものではないとわたしは思う。
夢の綻び
「男に恥をかかせない」ことが至上命題になると、女性はできないことを増やさなければならない。これが「あなたに食べさせてもらうからね」である。しかし実際にこういう配慮ができるのは能力の高い女性だ。いざとなったら自分でなんとかできる強さがなければ男性に全面的に頼っていては共倒れになる。
男性を守る強さがあり、面子をつぶさない賢さがあり、それを覆い隠す愛嬌がある。男社会の男らしさを守るために女性には多大の負担がかかっている。肉体的には弱くてあどけなく、情緒面では母性的という理想像は”ばぶみ”に象徴されていると思う。もはや実現不可能だ。*2
一方、「男らしさ」の幻想を共有し、男は立派だと支持してくれる昔かたぎの「女らしさ」をもった継母のような女性たちは、女性を上回る顕著な強さと経済力を男性に求める。「ルールズ」に代表されるような、あるいは井内由佳が指南するようなモテテクニックは強い男についていく古風な女像を強調する。彼女らがターゲットにせよと指導するのは男社会の頂点に立つ男性である。
「強い男に女はついてくる」は恋愛工学のdisりにも見られる。女を軽く扱え、一人の女に集中するな。こんな古風な男らしさの残滓が男性を席巻するのも「男らしくなければ人としてダメ」という強迫観念の影響だろうと思う。しかし古風な「男らしさ」を評価する古風で「女らしい」女性に、あるいはその家族に評価されるには、経済力と社会的地位が必要だ。
女性に優美さ、家事能力、受容的な態度など「女らしさ」を求めながら、従来「男の仕事」とされてきた経済力や力仕事、地域との関わりなどは免除してもらい、同時に「男らしい」男だけが得ていた賞賛を得ることはできない。
また男性に女性を上回るたくましさ、経済力、決断力など「男らしさ」を求めながら、同時に家事育児親戚づきあいなども分担し、なおかつ仕事一筋で家庭を顧みない男性と同じだけの成果と評価を得ることを期待するのは現実的ではない。
わたしはいまも「あなたに食べさせてもらうからね」という両親のエピソードがすきだ。頼られることがモチベーションになる人はいるからね。でもこれからは、それが男女別になっても成り立つ世界、同性夫婦の間でも「いい話」と共感される世界だったらいいなと思うよ。