こんなこと?
— S.Shiiku (@shinshukeshiiku) 2016年9月7日
良くもまぁ「こんなこと」なんて言えるな。 https://t.co/00N9tUH2pj
アイヌであることを明かしている人は少ない。正体を明かすことが攻撃の対象になることがあるからだ。在日朝鮮人、性的マイノリティ、自閉症やADD,ADHDなどの非定型発達者だとあかすことが偏見にもとづく攻撃の対象になるのと同様、自衛のため不特定多数に自分のアイデンティティをあかさない人たちがいる。
S.Shiikuさんはプロフィール欄に民族名を記載している限られた人の一人だ。S.Shiikuさんにとって和人によって迫害されてきた自分の部族を和人のゲーマーから「殺す」と発言することを他愛無いお遊びとして大目に見ろというのは些細なことではない。
アイヌ差別の苛烈さを配慮して、政府もアイヌの人数を明確にしていない。「和人と同化政策がとられ、混血がすすんでいるからアイヌではもういない」という主張があるが、アイヌだということは遺伝的な系統ではなく、先祖がアイヌであること、アイヌのコミュニティに属していること、アイヌとしての自覚を持っていることとされている。これを曲解して「アイヌは自己申告で誰でもなれる」というデマがある。
はてなブックマーク - ナコルルが強すぎてムカつく人たちによるアイヌヘイトスピーチ - はてこはときどき外に出るid:kutabirehatekoそもそもアイヌ人かどうかなんてわからんだろ。完全に自己申告なんだから、俺だってアイヌ人かもしれんし。それ言ったらアイヌ文化持ってないやつは血があってもアイヌじゃねえみたいな事言われたよ。
2016/09/08 02:41
こうした主張はよく目にする。特に国粋主義者が頻繁にこのデマを持ち出して「アイヌは利権目当てのプロ市民だ」と主張するのを見るが、実際には自称でなれるものではない。
Q5: アイヌは「先住民族」に該当するのか? | 「150年」を考える
近代から現代のアイヌと和人
アイヌが先住民であったことを示す近代の歴史的な事実について、id:kamayan1980さんが簡潔にわかりやすくまとめてくださったエントリーがこちら。
保護され、土地を与えられた*1ということはアイヌが実在する先住民であることを明治政府が認めていたということだ。
id:kamayan1980さんのエントリーを読めばアイヌが単に数が少ないというだけでなく、政治的な圧力を受け、国家レベルで迫害されてきたということがわかる。明治政府によって統治された日本国民を祖先に持つものはみなアイヌを迫害する国家の人間ということだ。どの国民、民族に対しても軽々しく殺すと発言することはゆるされない。しかしアイヌにそう発言することがもっともゆるされない国民はわたしたち和人だ。アイヌはいまも国土を共有する立場にあり、アイヌ差別は遠い過去のものではない。
意図的な悪意がなければヘイトスピーチではないのか
「それにしたってヘイトスピーチ呼ばわりは行き過ぎだ、穏便に話し合い、理解を深めなければ元も子もない」という意見がたくさんあった。
わたしが思うのはそれを言っていいのは当事者だけで、加害者の子孫が被害者にそれを求めるのははなはだ見当違いだということだ。自分の民族が少数民族を面白半分で揶揄することを野放しにするのは恥ずべきことだと思う。相手を理解する必要があるのは被害者ではなく加害者の方で、自分の立場をあかすことさえ危険な当事者に説明するためのリソースを割けというのは傲慢だ。
そもそも「当事者が見たらどう思うのか想像力を働かせろ」という指摘を「噛みつく」「殴る」と表現し、「アイヌ殺す」を「仲間内のお遊び」として大目に見ろというこの非対称性はおかしい。「ヘイトスピーチ」という言葉に過剰反応する人がいたけれど、「それはヘイトスピーチだ」という指摘は有罪判決でもレイシストのレッテルでもない。わたしたちは誰でも無自覚に差別発言をする可能性がある。
みのもんたが女性キャスターの腰に手をまわしたとき、彼はそれをセクハラだと思っていなかった。しかし多くの人はその認識のなさに激怒し、それは間違いなくセクハラであると断じた。サッカーのファンが人種差別的な行動に出ればレイシズムとしてニュースになる。ではなぜアイヌに対する公の殺害予告にはこれほど寛容な人が多いのか。あまつさえそれを目にしたアイヌにまでローカルルールを押し付けようとするのはなぜなのか。*2
無知を免罪符にしてはならない
台湾人の友人の家に泊まったことがある。彼女の母親は少数民族の出で、部族の言葉と日本語を話し、中国語が話せなかった。彼女は中国語と部族語を話し、日本語が話せなかった。ご母堂は美味しい料理をつぎつぎ出しては「つかいなさい、つかいなさい」といった。日本語でいろいろな話をして、自分で織った部族特有の織物を贈り物にくれた。
翌日彼女の親戚の家を訪ね、彼女の伯父と鉢合わせた。彼はわたしと二人きりになると鋭い目つきで苦々しく「私は中国語で字、書けないね。日本人の学校いかされたね。私、かわいそうね」といった。「そんなことをいわれても」と当時のわたしは思った。それはわたしがしたことじゃないし。わたしに言われても困る。「おかあさんはいい人だったけど、この人は嫌な人だな」とすら思った。
けれどもそれなりに年を取ったいま、わたしは自分の認識の甘さを当時より少しは理解できる。知らないことは免罪符にならない。「指摘されてなお居直ることはもはや政治的な主張だ」というこの増田のいう通りだ。
踏みつけられる人を遠巻きに見る人
父から書斎でボコボコに殴られていたとき、止めに入って追い返された父の愛人が、ドアの外で妹弟と笑っている声が聞こえたことがあった。(みんな、わたしが殴られていても笑っていられるんだな)と思った。「お父さんは愛情深い人なんだ、誰よりも子供のためを思っているけれど、不器用なだけなんだ」とボコボコにされたあとかけた電話でいさめられたこともあった。何かあったらいつでもいいなさいといってくれたけど、「逃げたい、助けてほしい」という懇願の答えは父への同情なんだなと思った。
わたしは理解する気がない人、「そんな態度じゃ理解してもらえないよ?」と外野からアドバイスしてくる人たち*3に向けてこのエントリーを書いているわけではない。*4
わたしは当事者に向けて書いている。あなたたちを殺すという発言を大目に見る気はない人間もいるのだと伝えたいと思っている。「多勢に無勢、ほうっておきなさい」と泣き寝入りをすすめるような真似はしたくない。
もっと上手にいえるひとは、あなたが書いたらいいよ。わたしは自分にできることをする。上手くやれなくてもね。