寡婦になってつらいことが三種類ある。
もちおがいなくてつらい。
もちおと見たかった未来がなくなってつらい。
すきなひとが傍にいなくてつらい。
もちおがいないことはもちおが生き返れない限り埋め合わせのしようがない。
もちおと見たかった未来も同様。
でも、もちおがいない現在とそこから続く未来がまずまず魅力的ということはありえる。
「時間がかかっても、いつかはてこさんが自分の人生を取り戻せたらいいなと思う」
ともちおが去ったばかりのころ友人に言われて、しばらく意味がわからなかった。
自分の人生???わたしの人生って?
もちおがいなくなったあとに、まだ自分の人生が残っていることにそのときはじめて気づいた。
もちおがいる人生はわたしの人生のお気に入りのバージョンのひとつで
ほかにもバージョン違いの人生があるという視点をすっかりなくしていた。
それからだいぶ経ってから、もちおがいないことと、すきなひとが傍にいないことは同じではないことに気づいた。
それがわかるまでは、もちおがいなくて寂しいのに、どうしてもちおじゃない人に会いたくなるのか自分の気持ちが理解できなかった。
もちおじゃない人に会っても意味がないはずなのに、どうして人に会うとうれしかったり、楽しかったりするのか。
わたしは自分が飼い主がいなくなった家に残る犬のように思えた。
家のどこにも家族だった飼い主がいない。
もうずっとずっと帰ってこない。
そこに別の人が訪ねてきたら、犬は喜ぶだろうか。
それとも警戒して追い立てたり、お愛想程度に尻尾をパタンと振って鼻先を前足の間にうずめるだろうか。
わたしはパートナーだった飼い主以外には懐かず飢えて死ぬような犬に憧れたけれど、そうはならなかったので自分に失望したし、もちおへの愛情はなんだったのかとも思った。
飼い主が死んでから水も飲まなくなって死んでしまう犬。
パートナーをなくしてまもなく後を追うように世を去る人。
それこそ真の愛って感じがする。
でもまあそうはならなくて、わたしは金にものを言わせて、ジムとか、ドミトリーとか、語学留学とか、オフ会とか、ひとけのあるところを探してはそこに潜り込み続けた。
死にかけて生き残るぞと思ってがんばったのに、息を吹き返したら、笑ったり喜んだりもちおのいない暮らしに楽しみを見つけたり、もちおじゃないひとと楽しく過ごしている自分にがっかりした。
わたしは飼い主がいなくなった家で暮らしながら通りかかる人に尻尾を振ってついていく犬だった。
ひとがすきだ。セブに行って自分がどれだけ人懐こいのか、よくわかった。
そうやって人を追いかけてあちこち出歩いているとどんどん未来が開けてくる。
もちおといかなかったところ、もちおがいたあいだやらなかったことをやり続けて、わたしはどんどん変わる。
もちおと繰り返していた日常を繰り返さなくなると脳ももちおエリアをどんどん書き換えていく。
思い出しては泣き、思い出せないことに泣き、泣かなくなったことに傷つきながら、それでも今日を生きている。
人がすきなたくましい犬。
「おまえは冷たいね、飼い主が死んでしまったのによその人に尻尾なんか振って」
と、この犬をいじめないでいてやりたい。
だってたぶんさ、本当に忘れたわけじゃないんだよ。もし飼い主があらわれたらめちゃめちゃ喜ぶじゃん。
いつか飼い主に会えるならそれまで元気でいた方がいいし、二度と会えないならやっぱりかわいそうだから何か楽しいことがあった方がいいもんね。