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渡らなかった橋

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例のTweetに関して有益な情報をくださったきょうもえさんが個人的な思い出を語っているのを読んである人を思い出したので書きます。

 

いま3000文字ぐらい書いたけど、消した。だいじな思い出だからやっぱ詳しい話はよすわ。

結論だけ書くと、結局ことに及ばなかったけれど、そうか、大事にしてくれたんだなと思ってずっとずっと心に残る人はいるよ、ということだよ。わかった?わかって。そういうことだから。そしてそういう人がいると自分をもっと大事にしようと思うようになって、人生の節目節目で襟を正すことができるの。

 

ちなみに十代のわたしに「肉体関係を持つことは恋人同士の間では自然なことだしそれなしには愛情は確認できない」と迫った年上の男性がいましたが、それまで押しも押されぬ非モテ街道を走っていた彼の暴走に応じなければならないと思い込んだことはいまも黒歴史です。

後にふと彼の名前を検索してみたら「中学生をホテルに連れ込んで淫らな行為に及んだ」ということで、2ちゃんねるに名前と住所と勤め先をさらされていました。あそこで押し切らせたことで道を踏み外したんじゃないかと思いました。

 

きれいな思い出として残るんじゃダメですか。「あそこでワンチャンあったのになー」というのは若いときにはがっかりな思い出だけど、年々ちょっといい感じに残っていくなあとこの歳になって思います。あとわたしのなかできょうもえさんの株はちょっと上がった。現場からは以上です。 

 

kyoumoe.hatenablog.com 

 

kutabirehateko.hateblo.jp


セックスってどうやってするの

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今回は平和裏にセックスにいたる知識の有無が人生を大きく左右するということと、それを学ぶのによさそうなものの話をします。

 

セックス指南ってだいたい下準備の説明があまりない。料理で言ったら食材がすべて用意されてカット済みの状態からはじまる。つまりお互い全裸でセックスをすることについては双方合意があるとうい前提で、どこをどう触ればいいかといった話が多い。もっと買い物段階や食材の選び方から教えてほしいと思いませんか。わたしは思う。*1

 

 アメリカにミルトン・エリクソンという数々の型破りなエピソードをもった医者がいた。*2彼の人を食ったエピソードのひとつに「友好的な離婚」という話がある。これは性格の不一致、というより性の不一致から離婚を考えていた夫婦にエリクソンが非常に具体的で示唆に富む指示を与えた話です。

 

友好的な離婚のための医学的な指示 

以下は私の声はあなたとともに P136から。

相談に来た夫は妻とともに厳格なクリスチャンで、同様の信仰を持つ両親のもとで育った。二人は親のすすめに従って盛大で疲れる長時間の結婚式と披露宴をおこない、親がすすめる142マイル離れたマイナス20度の町の居心地悪いホテルに泊まった。そこで義務感にしたがってはじめての関係を持ち、妊娠し、以来性関係をもつことを避けていた。はじめての性交渉はとてもみじめでつらい思い出だったからだ。

 

エリクソンのもとに訪れた夫は、夫妻が「子供が6週間の検診を済ませたら友好的な離婚をすることを望んでいる」と話す。「ついてはアドバイスがほしい」それに対してエリクソンはこう答えた。 

デトロイトまでいって、ホテルを予約してください。食事のための部屋と、もうひとつ別の部屋をとってください。乳母を雇って6週間検診をすませた赤ちゃんの面倒をみてもらいなさい。奥さんに、友好的な離婚をするときが来たので、仲良く別れなければならないと思うと、説明しなさい。彼女をホテルスタットラーに連れて行きなさい。いくらかかるかは知りませんが。素敵な個室で最高のディナーを召し上がってください。キャンドルも用意して、これは医学的な指示ですが、シャンパンも一本必要です。」

買い物リスト

  • デトロイトのホテルスタットラーを予約 ※ベッドルームと食事の部屋が別のもの
  • ベビーシッター
  • ホテルの個室での最高のディナー
  • シャンパン

 

「シャンパンをふたりでわけあって飲んでください。食事が終わったら、-10時より遅くなってはいけません-フロントに行って鍵を受け取りなさい。ベルボーイがふたりを部屋まで案内してくれるでしょう。部屋の前まできたら、ベルボーイに5ドルのチップを握らせ、さっさと立ち去るように告げなさい。彼にはその意味がわかるでしょう。それから扉をあけ、花嫁を抱きかかえて中に入り、彼女がまだあなたの腕の中にあるうちに鍵をかけ、ベッドの端に彼女をおろしてあげなさい。」

手順その1 入室

  • ディナーのあとベルボーイとともに部屋に戻り、ベルボーイをチップとともに去らせる
  • 妻をお姫様抱っこで部屋に運び込み、妻を抱いたまま鍵をかける
  • 妻をベッドの端に下ろす。

 

「そして彼女にこう言うのです。『最後のさよならのキスを』。優しく彼女に口づけをして、こう言いなさい。『今のはさよならのためのキス、今度は僕のために』。手を彼女の膝にそっとおいて、さっきよりもすこし長くキスをしなさい。それから、手を滑らせて彼女のスリッパを脱がせます。そしてもうひと言。『ふたりのためにもう1回キスを』。手を彼女のドレスの下に滑らせ、もう片方のスリッパも脱がせます。それからシャンパンとあなたの内分泌腺と彼女の内分泌腺によって、ことがはじまります。彼女のブラウスのジッパーをはずしてもう一度キスしなさい。ストッキングを脱がせて、さらにもう一度キスしなさい。

手順その2 キス

  • 妻にさよならのキスをもとめ、やさしく口づけする
  • 次に自分のためのキスをもとめる。手は妻の膝に。時間は先ほどよりやや長め
  • 妻のスリッパを片方脱がせ、二人のためのキスを求める。もう片方のスリッパを脱がせる
  • ブラウスのジッパーをはずしてキスをする
  • ストッキングを脱がせてキスをする

 

「私は彼に、奥さんの誘惑の仕方を完璧に教えました」

数年後、エリクソンはこの夫と偶然再会し、妻が三人目の子供を妊娠中だと告げられる。エリクソンは離婚を否としていたわけではない。この夫妻は互いを傷つけたくないと思うだけの愛情をもっており、そのために医師の指導を仰ぐだけの行動力もあった。エリクソンは夫妻の問題は性格や愛情ではなく、愛し合うやり方をしらないことだと見抜いたのだった。

 

愛は心にあるもの、愛し方は学ぶもの

 動物学者であるテンプル・グランディンによると、動物は本能的に狩をするが、獲物を食べることは上の世代からしか学べないという。これは人間の子育てやセックスについてもいえる。性行為を望み、受胎し、出産するところまでは教わらずとも結果的に達成することができる。しかし満足のいく性関係を築き、子供の必要を満たす子育てをするには間違いなく知識が必要だ。

 

エリクソンの本にはさまざまなエピソードがあるが、セックスに関連した話はとても多い。性関係は淫らな秘め事とされる一方で、愛情さえあれば上手くいくものとも考えられている。そうだろうか。愛情があっても他人の身体と自分の身体の息を合わせるのはとても難しいことだ。

 

もちろんダンスやチーム競技が得意な人がいるように、生まれつき才能のある人もいるだろう。でも大半はトライ&エラーを繰り返しながら学ぶものだし、先の夫婦のようにその過程でひどく傷つく場合もある。

 

女性向けAV専門に扱うシルクラボというメーカーがある。ここの専属AV男優の鈴木一徹によると、男性向けAVと女性向けAVのいちばんの違いはキスの頻度と長さなのだそうだ。愛されている、たいせつにされていると互いに認識することが性的な満足を上げるという考え方はエリクソンの指示と似ていると思う。

 

「めんどくさい」「そこまで女性に気を遣いたくない」という人はそれでよろしい。でも世の中には愛する女性をしあわせにすることが自分のしあわせで、そんな方法があるなら知りたいと思っている人もいる。そういう人は女性向けAVが参考になるんじゃないかなとわたしは思う。*3

 

でも本当はAVとそうでないものが別れていなければいいのにと思うんだけどね。ハリウッドでさえ朝ちゅんという状況で参考にできるものはとても少ない。人間の営みを描く物語から、そこだけばさっとカットされたり、曖昧にされたりしているセックス。

「女の穴」という映画はAV女優が出演していたけれど、セックスシーンが描かれているからこそのヒューマンドラマがあってとてもよかったよ。食に関する本がこれだけ出ているのに、性的指向に関する本はファンタジーと医学ばかりって変だよ。今日の料理から至高のグルメまでいろいろあるはずじゃん、セックスも。

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:恋愛工学やナンパ指南はそういう知識を教えているのかもしれないけれど、肝心のパートナーシップからは真逆なんだよなあ。

*2:いまでは彼の名をかたるインチキ商売が巷にあふれているけれど、これらはすべて彼の死後彼と無関係に設立された団体であり、彼自身は経済的にさほどめぐまれない状態でこの世を去った。

*3:男性でもあれが大好きな人はいる。現実味があっていいってさ。

「女の子になりたい」を応援します。あるいは「童貞」「草食系」はいかにして侮蔑語になったか

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 *1

今回は男社会で苦労している男の人たちのことを書きます。

今日一日だけでいい
リボンを解いて
男の子にさせといてね
朝まで一緒ね
だけどchance いつかchance
二人danceする時には
ふいに女にもどるの

「男の子になりたい」は1987年の歌で酒井法子のデビュー曲。

のりピーは男の子になって何をしたいのか。

星のハイウェイ バイク飛ばして海へ

アイツのあとをつけていく

世界中を自由に旅したい 

バラを一輪飾るスーツで最後の日をキメルの
女の子には見せない素顔を見たいの

 要するに、「女の子はそんなことしちゃいけません」といわれることを、「男の子だぜ」とすましてやってみたい。そして女扱いされずにアイツと語らいたい。 

男性になりたいのではない。「女の子」扱い、「女らしく」から自由になりたい。そういう歌。

 

これは女性だけでなく男性にもある気持ちなんじゃないかな。性自認は男性で、これからも男として生きて生きたいけれど、「女の子になりたい」男の子。「男の子」扱い、「男らしく」から自由になりたい男の子っているじゃん。

 

童貞でなにが悪いのか

童貞であることが物笑いの種になる理由がわたしにはいまひとつよくわからなかった。結婚するまで童貞を守るというのはマザーテレサもおすすめの立派なことだと思っていたからだ。でもあるとき「ゲゲゲの女房」を見て、雷に打たれたようにその理由が理解できた。

昭和のはじめはセックスは男性主導であるべき理由があったのか。

安全な避妊方法がなく、性病が蔓延していた時代に未婚女性が安全に性を謳歌する道はなかった。また家長制度のなかにあって夫は妻の上司のような存在で、処女の妻をリードしなければならない立場にいた。このような時代、男性が結婚前に性交渉のやり方をしっていることは重要だった。

 

それならもういまは大丈夫じゃん。女性も男性と同じくらい性知識をえることができるし、100%ではないけれど、比較的安全な避妊、性病予防の方法がある。男性は女性の上司ではない。なんだー、そうかー!と思ってその感動をしたためた。

 

男女同権なら、童貞でだいじょうぶ 其の一

男女同権なら、童貞でだいじょうぶ 其のニ

男女同権なら、童貞でだいじょうぶ 其の三

男女同権なら、童貞でだいじょうぶ 其の四

男女同権なら、童貞でだいじょうぶ 其の五

 

しかしわたしは間違っていた。男性がリードすべきという社会的な圧力は過去のものではなく、男社会の家訓のひとつだったのだ。

 

「男社会」という家

男社会とは代々続く旧家のようなものだと思う。男性はこの家の第一子として扱われる。特権もあるが責任も重い。いずれは家を継ぐのだからと先代からあれこれ託される。上手く出来なければ容赦なく激が飛ばされる。「それでも男か」。

 

いっぽう女性はこの家では第二子の立場にいる。家督はなし。いずれ跡取りが面倒を見てくれるから、上の言うことはしっかり聞きなさい。上を立てて支えなさい。かわいがってもらいなさい。おまえは出来ない子、「女の子なんだから」。

 

「これは不公平ではないか」と思う第二子たちがいた。ふざけんな。こんな家飛び出してやる。どうせろくな財産もねえしな。ということで、出て行った女性たちはフェミニズムに目覚めた。そしてじわじわと「女らしさ」の押し付けに断固抵抗する道を歩み始めた。

 

第二子の反乱に家長は激怒した。そして第一子によりいっそう期待がかかった。おまえはこの家にふさわしい人間にならなければダメだ。おまえが男らしくなくなったら、おまえは家の人間として見限る。女だっておまえを見下す。おまえが立派な男なら女もおまえを認める。女たちは男らしくない男が大嫌いなんだ。俺は女に愛された。それは俺が男らしかったからだ。

 

第一子はこれまでお年玉も多めにもらい、第二子にゆるされない学問を受けさせてもらい、同じ仕事をしても第二子より多めの給与を受け取っていた。いずれこの家を継ぐんだからな、と家長はいった。裏切るなよ。

しかしここに無血革命がおきる。草食系男子である。

 

草食系男子はいつから侮蔑語になったのか

草食系男子たちは家長にまっこうから楯突くようなことはしなかった。面従背腹、涼しい顔で「女をモノにしてこそ男」という家訓に逆らった。「そんな男はモテない」「女もいない男は男として認められない」は彼らにとって効かない脅迫だった。また草食系とはことなるが、ゲイ男性も同様にこの家訓には従えないと家から出て行った。

 

家長は家に残った子らの前で反逆児たちを罵った。罵りの言葉にはいつも女が出てくる。女に認められない男は家長が認めないからだ。「あいつらは女も抱けないなさけない男だ。女だって笑ってる」。*2

 

親の手玉にとられる第一子たちは誇りと不満、特権意識と劣等感を持つ。男社会に従うものたち間には「女を抱いてこそ一人前の男」という不文律がある。合理性があろうがなかろうが童貞は不名誉なのだ。

 

そう考えたら恋愛工学にあれだけの人が群がる理由がわかった気がした。あのセオリーに従えば不名誉な汚名をそそぐことができる。童貞でなくなったあとは「経験人数の多い男」として自分を認めることができる。それは男社会ではちょっとしたステイタスなのだ。

 

女の子になりたい男の子

「ばーか、ばーか!ふざけんな」と出て行った第二子たちは声を上げ続けており、比較的すぐに仲間をみつけられる。でも男性はメンズリブという言葉すら知らないことが多い。男装する女性とくらべて背徳感と罪悪感をもって女装し、みつかれば社会生活が脅かされることさえある。

 

これはきつそうだ。男の子もたいへんだ。そう思ったエマ・ワトソンが男らしさからの開放をうたったが、家長たちはこれにも激怒し、騙されるなと叫んだ。

www.youtube.com

「俺たちは女を得た。それは俺たちが男らしかったからだ。この女だってそうだ」「女の話を信用するな」と言い募った。

 

男らしさから自由になるとは必ずしも女装してしなを作るということではない。男の子だって人間だ。泣きたいこともあるし、酒を飲みたくない日もある。外で働くより家で家事をやって子育てがしたい人もいる。猫や人形を愛でたい。奢って欲しい。きれいになりたい。ドレスも着たい、かわいいね、エロいね、とちやほやされたい。デートでエスコートされる側になり、セックスで攻められる側にまわってみたい。男に抱かれたい人、誰ともセックスしたくない人、友達として女と向き合いたい人もいる。ところがこれらはみな「男らしくない」。

 

家にとどまった名誉男性と家長の寵愛をうけている女性たちは第一子に「男らしさ」を見せてとせまる。

家を出た女たちと関係を結べば「尻に敷かれている」「あべこべだ」「恐妻家だ」と非難される。

だから男の子は表立って女の子になれない。おふざけで、息抜きで、こっそりとやるしかない。

 

「女の子になりたい」と思う男性の願いが当たり前のこととしてかなういいなと思う。男にしか認められなかったことを女性が勝ち得ているように、女にしか認められないことを男性も勝ち得ていけるように願っている。

そうしてもっと相互に役割を分担して助け合っていけたらいいと思う。

www.asahi.com

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:学ランを着て折りたたみ傘を持つ男の子というお題で描いた。

*2:実際には草食系男子を誉め言葉として出したのは女で、ゲイは女たちと共にLGBT差別と戦っていた。

「恥をかかされたから次はない」という女は存在する

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部屋に上げてもらったとか、食事に同伴してくれたとかで舞い上がらんと相手の真意を確かめなあかん」と書いてきましたが、わたしは間違っていたかもしれません。

今回は「食事に同伴する」「密室で二人きりになる」が肉体関係を望む明白なサインで、それを受けてもらえなかったら次はない、という女性グループが実在することをお話します。

 

  東京ゆっちをやれる店、銀座一丁目の「マイハンブルハウス」でデートしたけど当然ヤレなかった。 - 俺の遺言を聴いてほしい

 

女に恥をかかせる男

元AV女優、現カップルコミュニケーションアドバイザー小室友里先生の女の「したい」を見抜く技術 会話・しぐさでわかる38のサインと作法 によると、女性はどんなに社会が変わっても絶対に、自分から、男性をベッドに誘ってはいけない。男性はどんなに素敵なひとからであっても女性の側から誘われると興味をなくし引いてしまう。女性はOKサインをさりげなく出しながらひたすら男性からのアプローチを待つしかないそうです。ほう。

 

だから男性は女性のサインを見抜いて、男性側からベッドに誘わなければいけない。さもないとOKサインを出したのに袖にされた女性は恥をかかされて大ダメージを受け、以後二度とその男性とは関わりたいと思わなくなる。「このまえ楽しく食事をしたばかりなのに・・・なぜ急に避けられるようになったんだ?」それはあなたが彼女に恥をかかせたからだ、と小室先生は語る。ほほう。

 

数ヶ月前だったらわたしはこの話に驚いていたと思う。そんなん初耳やわ!でもモテとナンパの話を追ってきたいまならわかる。そうか。これはモテ地獄の作法なんだな。
「いったい誰が男から誘わなければならないとか、女は手を出されなかったら怒って当然とか言っているのか」と思っていたけれど、モテ地獄の人々だったんだね。

 

 茶道華道モテ道には作法がある

あおいちゃんパニック」というSFコメディがある。

あおいちゃんは宇宙人のパパと地球人のママのミックスで、中学から地球へ転校してきた。重力の違いや習慣の違いでさまざまな事件がおきる。ある日美術の時間にスケッチが遅れていたあおいちゃんにクラスメイトの森村くんが「手伝ってやろうか?」と聞く。あおいちゃんは顔を真っ赤にしてはわわわわと走り去ってしまう。あおいちゃんの故郷では共同で絵を描くことはなんとプロポーズを意味していたのだった。

 あおいちゃんは頭では日本にそんなルールがないことを知っている。でも絵を描く=結婚という文化で育ったあおいちゃんは森村くんを意識せずにはいられない。

 

モテ地獄でトロフィー彼女、トロフィー彼氏を求める人々はモテ地獄の作法こそ男女のスタンダードだと思っている。だからモテについて語るときはもちろんその文脈で話す。そして小室友里さんによれば、デート中にしかるべきサインを送ってきた女性は男性にお膳を据えているのであり、「据え膳食わぬは男の恥」であり、サインに応じないのは「女に恥をかかせる」行為なのだそうだ。

 

・・・そうなんだ・・・。本当に、そんな世界があるんだ・・・。

 

そしてモテ地獄では男女が部屋で二人きりになるのは明らかなOKサイン。モテ道に精通した男女なら肉体関係を望まずにそのような状況になることはない。いっしょに絵を描いたら結婚。外から見るとびっくりするが、中の人には共通認識。モテ道にはこのような暗黙のルールが多々あり、それを駆使することで面と向かって相手の顔を潰すことを避けている。

 

大人になること、男女の仲を知ること=モテ地獄の作法に通じることと心得てきた人にとって、このような知識の習得は大切なことなのだと思う。モテ地獄で上層を目指す方には必修科目だと思うので、しっかり身につけていただきたい。たぶん恋愛工学信者の方々は藤沢数希によってこの辺を厳しく躾けられているのだろう。

 

しかし「策士、策に溺れる」というが、かの藤沢数希がうしじまいい肉さんに三万円の寿司をおごり、ホテルのバーへ案内しながら一線を越えることができなかった理由はまさにこの作法のせいではないかと思う。

 

モテ作法が盲点を作る

小室友里先生には必殺技がある。これぞ、と思う男性と食事にいったときには「お手!」といって手を出させ、その手をぎゅっと握り「ずーっとこうしていたいな」という。この技に落ちなかった男性はいないと彼女は語る。手を握るのは明らかなOKサインなのだ。

 

ところがどっこい、藤沢数希は三万円の寿司をおごっている間中ずーっとうしじまさんの手を握り続けていた。うしじまさんは「三万円の寿司おごってもらってるんだから、手ぐらいいいかな」と思ってそのままにしていた。これはOKサインではなく義理譲歩だったのである。

 

小室先生によればホテルのバーまでついてきてくれたら先は決まったようなものだ。これがモテ地獄のスタンダードだとすれば藤沢数希も「いける!」と確信したことだろう。彼は最終的にうしじまさんの自宅のドアの前までついてきた。自宅の場所を教える、部屋の前まで来るとはモテ地獄マナーとしては「上がってお茶でも」といわざるをえない状況であり、部屋に上げたら肉体関係という絶体絶命の状態である。しかしうしじまさんの行動はモテ地獄作法にのっとったものではなかった。ドアは閉められ、二人の夜は終わった。

 

モテに毒された人々はうしじまさんの行為を不誠実だと思うかもしれない。OKサイン出しまくりで寿司だけ食って帰るなんてひどい。でもそれはモテ地獄の中だけの、それも極東日本の島国のごく一部のローカルルールにすぎない。それを守るいわれはない。

 

このようなすれ違いはいたるところにある。モテ作法を身につければモテ地獄の亡者同士では話が早い。でもがんばればがんばるほど、そのような作法を離れた人の感覚からは遠ざかる。食事は食事、お茶はお茶、プレゼントはプレゼントである。

 

それだけではない。サークラはこのようなモテ地獄作法でスタンダードとされる「あなたに気があります」というサインを意図的にせっせと送る。そうすることで交際を仄めかすことすらせず相手を勘違いさせる。思わせぶりはモテの基本なのだ。モテ本ナンパ本は手取り足取りそのやり方を教えている。

 

キャバ嬢やホストのように仕事としてそうしたテクニックを身につけている人々もいる。アイドルや営業職の人間もいちぶそのような態度をとる。そして白黒はっきりつける段になってようやく「そんなつもりじゃなかった」という。これは不誠実なことだけれど、真意を確かめずにモテ仕草で読解したのは自分自身だ。

ではその気があるのかないのかはっきり言ってもらうにはどうしたらいいのか。

 

知りたいことは聞く

「部屋に呼ぶなら肉体関係OKかどうか事前に教えてほしい」という人たちがいたけれど、はっきり知りたいなら聞けばいいと思う。でもこれは夕飯時に招かれて食事が出るかどうか微妙なときと同じで、食事は出ますか?とは聞きづらい。こういう場合、やはり基本は出ないものと考えて、出ても入る程度に軽く何かつまんで出かけるものだと思う。

 

でもね。わたしモテは地獄だってずっと書いてるじゃないですか。パートナーシップとは違うものだと思うって。でね、パートナーになることを考えている人だったら、肉体関係ってその場のノリで越えるものじゃないと思うのよね。その線越えるまえにほかに聞くことあるんじゃないかと思う。

 

モテ地獄暮らしの人だったら「ここまでサイン出してるのに!」って怒るかもしれない。「次はない!」ってなるかもしれない。でもモテ地獄の人ってなかなか解脱しないから、交際したらあなたもモテの作法に明るくならなきゃいけないよ。ついていける?

 

「お宝鑑定団」なみの鑑識で、自分の経歴や相手の経歴や収入を、容姿を、親兄弟や出身地をトロフィーにされる世界になじめる?
三度の食事をしたとしても、部屋に招かれたとしても、見極めなきゃいけないのは相手がどの言語に通じた世界で生きているのか、そっちだと思うのよね。

 

でも「まかせろ、モテを制覇してやるわ!」っていう人は小室友里先生の女の「したい」を見抜く技術 会話・しぐさでわかる38のサインと作法をおすすめします。読みやすい文章のお手本のような本で、構成の参考にもなります。わたしはムリだと思った。とろろ蕎麦を頼んだら肉体関係OKサインになる世界なんて恐ろしすぎる。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

yes,no枕は必要か

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「男女が二人きりになるのは肉体関係の合意、それは共通言語だ」というブログ引用がいくつか来ている。いっぽうでトイアンナさんのようにそれは違うと考える人もいる。合意か合意でないかを知る目安としてyes,no枕を採用してはどうかという声もある。

わたしは結婚前に夫の住まいに一度泊まった。夫は何度かわたしの部屋に来た。今回はそのとき何をしていたのか書きます。

 

結婚前のわたしたち

もちおは結婚を前提に交際を考える人で、わたしはもちおに結婚も交際も望んでいなかった。それでももちおは諦めなかったので、お友達からはじめましょうということで連絡をとりあっていた。いわば大切に思う異性の友人であった。


「ちゃずけのきろく」のchazukeさんが異性の友人を部屋に上げない理由をこう書いている。

「据え膳食わぬは男の恥」 それはあなたのお膳? - はてこはときどき外に出る

大切に思う異性の友人の部屋には相手のその後の評判も考えて立ち入らない、が異性を友人を持つ「マナー」のように思います。

2015/10/22 14:09

b.hatena.ne.jp それは本当に「友達」と呼べるのか? - ちゃずけのきろく

わたしたちはこれに近い考え方をもっていた。はずみでどうこうを避けたい気持ちもあったけれど、二人の間に何があったかによらず、周囲がどう思うか、そこで相手の評判を落としたり、誤解させたりすることがないようにするのが思いやりだと考えていた。夫が家を出て一人暮らしをはじめてからも会うときは外で会った。

ほいで、わたしが倒れて休職期間に入ってからのこと。

ある日もちおが熱を出して寝込んだ。電話すると食事をしていないという。「でも大丈夫だから。うつるといけないからいいよ」ともちおは言った。しかしどうも家には何もないようだった。
もちおは越してきてからちょいちょい料理を作って届けにきてくれた。今度はわたしがお返しする番だ、とわたしは思った。その日は少し身体の調子がよかったので、数駅先のもちおのアパートまで差し入れを届けに行った。

 

ドアの前から動かないもちお 

当時もちおは結婚資金を貯めると意気込んでおり、「平民新聞」の金子さんが住んでいるようなアパートに住んでいた。*1風呂なし、トイレ共有というワイルドな部屋のドアをノックすると顔色の悪いもちおが出てきた。そして驚いた顔をして後ろ手でドアを閉め、仁王立ちになった。なにかおかしい。

「どうしたの。部屋に何かあるの」
「なにもない」
「寒いでしょう、中に入りなよ。これ差し入れ」
「ありがとう」
「どうしたの」
「いや、なんでもない」

もちおは意図せず「押すなよ、ぜったい押すなよ」状態になっていた。わたしはぐいぐい押し続け、ついにもちおは「部屋を見られたらはてこさんに結婚してもらえなくなる」といった。「そんな秘密があるなら見ておかないとだめに決まってるでしょ?!」とわたしはいった。最後はもちおが折れて、わたしは部屋をのぞいた。

すごい散らかり方だった。

「風邪引いていまちょっと散らかってるんだよね」というレベルではなかった。わたしは同僚の大学のアニメ研究会で遊んでいたころ、彼らにくっついていって色々な男性の部屋へいった。そこで男子の部屋の散らかし方はそれなりに見てきた。兄と弟もいる。わたしも一人暮らしをはじめたばかりのころはかなり散らかした。

しかしもちおの散らかし方はそういうのとは格が違った。マグニチュードが二つかわるくらいの散らかり方だった。越してきてほんの数ヶ月で、いったいどうやってこれだけ散らかしたのか、宇宙の法則が乱れるくらいの散らかり方だった。おいおい、ここで料理をして届けていたのか。

 

はてこのターン

そこからさらに長い押し問答があった。そしてわたしが勝った。わたしたちは部屋の片付けをはじめた。*2ゴミを集め、分別し、洗濯物をコインランドリーへ持っていった。片付けは深夜に及び、終電を逃したわたしは不潔なシーツに文句を言いながら一夜を明かした。はじめからそのつもりはなかったけれど、二人とも肉体関係どうこういう気分ではなかった。
 
翌日の午後、部屋は見違えるように清潔にすっきりときれいになった。そもそも所帯道具といったら布団と卓上コンロしかなかった。あとはだいたいなんでもダンボールで代用して暮らしているようだった。卓袱台すらない。そのころ偶然ミスタードーナツで小さな折りたたみテーブルをプレゼントするキャンペーンをやっていたので、買い物ついでにドーナツを買ってそれをもらってくるように頼んだ。
 
もちおの母が片付けられない人だというのは聞いていた。父親と子供たちは自分たちの領域を片付けるけれど、母は台所や茶の間に手を出すことをゆるさず、たいへんなことになっているという話も聞いていた。だからもちおは自分の部屋は片付ける方だと思っていた。しかしそれは相対的な話であった。
 
この経験を通してわたしはもちおがどのくらい片づけができないかということを知ったし、もちおはわたしがどのくらい我を通すかということを知った。それは結婚を考えるにあたって有益な情報であった。これは最初のやりあいでもあった。我々はその後何千回と「片付けなよ」「自分でするから」を繰り返すことになる。

 

もちおのターン

その後しばらくしてもちおはわたしの部屋へ来て上がっていくようになった。いよいよ身体の調子が悪くなったわたしが自分で立ち上がってカーテンを開け閉めすることもままならなくなったからだ。今度はわたしが抵抗し、もちおが押し通す番だった。もちおは買い物してきたものを冷蔵庫にしまい、汚れ物を洗濯し、料理を枕元に運んでくれた。
 
残業後にやってくるもちおはしばしば気を失うように床で眠ってしまった。通う時間と所帯をわける費用が無駄なんじゃないかという気がだんだんしてきた。携帯も家族割りになるし。そうしてだんだん「もういいか」という気持ちになって結婚した。だってこの人めちゃくちゃいい人じゃん。こんなによくしてくれる人、いないじゃん。
 
我々にYes,No枕は必要なかった。どこで線を引くか、気があるかどうか、相手の気持ちをどう思うかはかなりはっきり話し合ってきたからだ。話し合う過程で喧嘩も起きるし、そういうのは色っぽくない。興ざめする人はする。でも友達でも伴侶でも深く知り合いたい人と関係を築くなら、そういった話し合いは必要だとわたしは思う。

 

作法の真髄を考える

以上の話は「だから肉体関係を望んでいなくても部屋にあがっていい」という話ではない。これはわたしたちのルールだ。どう考えるかは自分と相手で決めなければならない。

 

茶道のマナーでNGでも楽しくお茶を飲むには問題ないことがあるように、モテ作法ではNGでも人と人が仲良くなる上では問題ないこともある。合理的で美しい作法もあれば、決まりごとが人を抑圧し、傷つけることもある。わたしは素人が楽しくお茶を飲める方法を研究することをおすすめしたい。

「お茶席だ!茶碗をどっちにまわすのが正解?」とびびらずに、会話しながら二人のルールを作っていったらいいと思う。「裏千家ではこれが常識だ!」「表千家はもうずっと前からそれはなしだね」と揉めるより、二人だけのルールを確立したほうがいいと思う。

 

そのなかで従来の考え方と一致するものがあれば採用すればいいし、二人の間でなしだと思ったら不採用にしたらいい。万人に使えなくてもかまわない。これはモテとは関係のない話だから。

 

最後に誤解の原因となるものをもうひとつ紹介したい。

 妖怪のせいなのね、そうなのね。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:駅から徒歩8分、八畳和室、電気水道込みで家賃は2万。

*2:散らかった部屋を見ると何が何でも片付けたくなる悪い癖がある。日ごろ強く我慢してこらえているが、結婚後友人宅親戚宅でもやってしまった。

モテ作法を常識にしない方がいい理由

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今回は「言葉で伝えなくてもサインを送りあえばOK」というモテ作法を個人のローカルルールではなく社会標準と考えることの弊害について書きます。これは「男は空気よめ」「女はサインを明確にしろ」と言う話ではなく、コミットしたい相手と意思疎通をはかるならモテ作法にこだわらないほうが有利だという話。


モテ作法のメリット

ここでいうモテ作法とはいわゆる恋愛本やナンパ塾、恋愛工学など異性にモテるためのアドバイスとして推奨されているもののこと。ばらつきはあるけれど共通点がいくつかある。

 

  • 意思疎通より場の雰囲気をよくすることを重視する
  • 好感を得られそうなことだけ自己開示する
  • メリットのない相手には極力関わらない*1
  • 男性はイニシアチブを取るもの、女性は隙を見せてアプローチを受け入れるもの

 

モテ指南の目的は相手の気分をよくし、自分に好感をもってもらうことだ。これは恋愛に限らず場の雰囲気をよくしたいときに役立つ。そのための役割分担もはっきりしている。「モテは非コミュなんじゃないかと思う」と書いてきたけれど、モテ指南はコミュニケーションが苦手な人のプレッシャーを軽減する。非コミュ自認が強い人はモテメソッドを素直に受け入れ、勤勉に学ぶので覚えが早い。そしてモテ指南は具体的で実用的なアドバイスが多い。

 

恋愛工学徒であるid:hideyoshi1537ことヒデヨシさんは「マニュアルは不安な心を救う」と書いていた。*2高級レストランへいくまえにテーブルマナーを学ぶように男女の作法を学べば不安が軽くなる。*3モテ指南は元来恋愛や人間関係に悩む人に有効なのだと思う。それは不安を軽減し、人に対する苦手意識をなくす一定の効果がある。

 

モテ作法のデメリット

こうした作法は世代や地域によって差があり、それらは各々が属するコミュニティで共有される。モテ作法はコミュニティ内の言語のようなものだ。言語には語彙が少なく覚えやすいものと、地域色が濃厚で外の人間には意味がわからないものがある。

 

古代バビロニア人が天まで届く塔を建てようとしたとき、神は彼らの言語を混乱させた。人々は共同で作業することができなくなり、言語ごとにわかれて各地に散らばった。モテ作法で共有される言語にはこれと同じ問題がある。自分の言語に固執するとそれを共有できるものの間でしかパートナーが見つけられないということだ。

 

そして特定の言語が少数言語を圧倒するとき、少数言語を話すものは会話すること自体を諦めてしまう。恋愛にコミットしたければモテ社会の言語を学ぶところからはじめなければならないとモテ指南は語る。しかしモテ作法を標準化することには次の三つの問題がある。

 

1.モテ作法は意思の確認を怠る

モテ作法では会話は場の雰囲気をよくし、自分の好感をあげるために使われる。基本は「なんでも同意する」「聞き手に回る」というもので、発言は会話を盛り上げる程度の相槌でよいとされている。「相手の言い分をまじめに聞く必要はない」「自分に関係ないものと思っていればたいていのことは気にならない」「真実である必要はない」とするものまである。

 

そして肝心の恋愛感情は非言語を読み取り、発信することで伝えることになっている。面と向かって「セックスがしたい」「結婚してほしい」と伝えるのはムードに欠ける行為、双方の面子を潰す結果になりかねない、ということだ。

 

しかしこの空気の読みあいが勘違いの元になっているのは間違いない。相手の気持ちをはかる目安がモテ作法になると「男性は気のある女性に奢る」という作法を信じ、「割り勘だったから愛されてない」と思ったり、「女性は肉体関係を望む男性だけを部屋にあげる」と信じ、部屋に招かれて勘違いをしたりする。

先日の記事に関連したエントリーで「あのときのあれはもしかして」「読み違えたか」と過去を悔やむ声がいくつもあった。双方の意思を十分理解した上で決定していたら少なくともその点で後悔はなかったと思う。

 

親子ほどの年齢差がある異性からとつぜん迫られて困惑するという話をときどき聞く。これも男性であれ、女性であれ、相手に恋愛感情を抱く側が早い段階で意思疎通をはかっていれば誤解せずにすむことだ。*4遠まわしなモテ作法を理解するよう相手に期待するのは現実的ではない。

モテ作法で匂わせるだけで相手に気持ちが伝わっていなければ相手からはこのように見える。岡本太郎は「自分の中に毒を持て」でこれの女性版について「やたらに目線を送ってきたり思わせぶりな態度をとるのに、はっきり近づくと拒絶する。日本の女性は不可解だ。パリは楽だった」というようなことを書いていた。これではアカン。

 

2.モテ作法はマイノリティやイレギュラーな状況を見落とす

モテ作法は基本的に異性愛者で性関係を意識する男女がどうあるべきかを基準に構成されている。しかしその枠外にいる人々もコミュニケーションを望んでいるのである。

 

独自のファッション哲学と人生哲学で多くの人々を魅了しているティム・ガンはゲイだ。彼と女性が二人きりになることは双方が肉体関係を望んでいるサインになるだろうか。また彼が男性と二人きりになることは同様のサインになるだろうか。だとしたら彼は男性とも女性とも親密な友情を結ぶことはできないのだろうか。

 

彼は同性愛者であると同時にアセクシャルでもある。彼は恋愛感情を持つ人に対しても性的な感情を持たないと著書の中で告白している。*5性関係を望む相手とだけ二人きりになるべきならば、彼は誰とも互いに行き来して二人で語り合ったり、ゲームをしたり、酒を飲んだりすることはできない。

 

「それは例外だ、極端だ」と思う人もいるかもしれない。しかし多数派から見れば特殊といえる状況の中で暮らす人はおそらく多数派が思うより多い。

 

妹にはトランスセクシャル女性の友人がいる。彼女が戸籍上男性であったときから妹は彼女と親しくつきあっていた。これを「異性と二人きり」にカウントするべきだろうか。また社会的な差別があるとしてもLGBTは多数派が誤解しないように公に性的指向を告白すべきだろうか。*6レズビアンは女性とも男性とも二人ですごすべきではないのだろうか。

 

また異性愛者であっても異性とただお茶を飲みながら語らいたいときがある。病気で気弱になったり、現実的な助けが必要な場合もある。お茶を飲むのに適当な店がない地域もあれば、そのような場へいく経済力のない人もいる。男女は恋愛抜きで自宅でお茶を飲んだらだめなんか。恋人同士でも今日はハグだけでいいという日だってある。

 

3.モテ作法は責任を棚上げする

心を殺された私―レイプ・トラウマを克服してという本がある。

著者の緑河さんはクリスチャンで、結婚関係外の性関係は持たないという信条をもっていた。しかし緑河さんは知り合いの男性にトイレを貸して欲しいと頼まれ、部屋に上げたところでレイプされた。それまで男性にそのようなそぶりをされたことはなかった。*7

 

緑河さんは男性を部屋に上げた自分が悪いのか、相手が悪いのか、いったいなぜこんなことが起きたのかがわからず悪夢のような日々を過ごす。そして長い間悩んだ末、相手の男性に対して声を上げた。彼は部屋に上げてくれたのはOKのサインだった、関係をもったのは合意の上だったとうそぶく。

こうした犯罪は枚挙に暇がない。

 

わたしは自衛手段として肉体関係を持つ気がない相手とは密室で二人きりにならないという対策を否定しない。しかしそれを男女の共通認識として逆手にとり、断りづらい状況を作ってあの手この手で部屋におしかけ、乱暴したあげく「部屋にあげた以上合意したも同然、何が起きても自分の責任」と嘯くような人間には断固賛同できない。それを共通認識として採用することは問題があると思う。

 

実際この種の罪悪感や責任感につけこんでことに及ぶべしとするものもある。「ここまで来たら断るわけにいかない」「受け入れてしまった自分が悪い」と思いながら関係を持たせることは卑劣きわまりない行為だ。*8

 

「ここまで来たのに」と怒ったり失望したりして相手を怨むくらいなら、早い段階でわかりやすく意思を伝えなかった自分を責めるべきだと思う。*9もちろん「ここまで来て求められないのは女として屈辱」という考えもやめたほうがいい。合意をえていない女性に迫ろうとしない男性にはなんら落ち度がない。わたしは男性であれ、女性であれ望む側が機会を提示するものだと思う。はっきり伝えて断れたら嫌だと思うのはどちらも同じだ。

 

モテとパートナーシップをわける理由

以上のような理由でわたしはモテ作法はローカルグループの間でのコミュニケーション手段のひとつ、そこでのルールは内々の目安と考えるのが妥当だと思う。通じない可能性は常に頭にいれておいた方がいい。大事なことは確認する。*10*11実際相手が習慣の違う国の人だったらそうするでしょ?

 

もっといえばわたしにはモテ作法を察知する能力なんかたぶんほとんどない。わたしだけじゃなくモテ地獄の圏外にいるひとたちもそうだと思う。そんなの小泉今日子が「わたしの16才」で歌った紙飛行機に書いた花言葉とか、髪にさした紅いリラの花くらい遠まわしな表現だ。*12貴族が和歌や扇で思いを伝え合ってたやつとか。かっこいいけどわからない。

 

わたしがパートナーシップとモテをわけて書くのは、こうした作法がわからないことはモテ社会の中では致命的だけれど、人と人とが伴侶になる上ではさほど大きな問題ではないからだ。モテ作法がわからない、空気が読めないことは恋愛や結婚に縁がないということではない。世界は広い。わたしが知ってる仲良し夫婦はだいたいこういうことに疎い人ばっかりだ。

 

モテ作法で互いを知り合い、上手くいく人もいるだろう。それが向かない人はモテ作法で人と渡り合わないでいい。「恥をかかされた」とか「ここまできて」とか言われることもあるかもしれない。けれども本当にわかりあいたかったら作法を外れたって自分なりに気持ちを伝えることはできる。汲み取れるかどうかは相手の問題だ。

 

わたしがいいたいのはそういうこと。じゃあどうすればいいと思うかはまた今度書く。 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:メリットは目的によってかわる。ナンパ、恋愛工学であれば肉体関係をもてること、結婚前提の恋愛指南であれば学歴や職歴など社会的ステイタスが高いこと、御しやすい性格であることなど。

*2:藤沢数希はいけすかないんだけどヒデヨシさんはだいすきです。ブログ楽しみにしてます。

*3:しかしヒデヨシさんが「ナチュラル」と呼ぶ小細工なしでモテる男はマニュアルなしで臨機応変に行動し、なおかつモテる。こういう人はモテ指南を必要とないので、あまりそうした決まりにとらわれない。

*4:意識していない側は察することはできないし、もしやと思っても自意識過剰なのではと考えるもの。わかってほしい側が態度をはっきりさせるのはあたりまえだ。

*5:ティム・ガンのゴールデンルールより

*6:いうまでもなくゲイとなら女性が安全だということではない。性的指向は個人の性格とは関係ないし、暴力は性的なものだけではない。

*7:あるいははっきり伝えられなかったため気がつかなかったのかもしれない。

*8:断りづらい状況で二人きりになることを迫られ「ここまで紳士的に接してくれたのに、二人きりになることを断ると下心があると疑うことになる」と自責の念にかられて要望に応じ、「部屋に上げたからには応じた自分が悪い」とさらに自分を責める。

*9:そして男女の性関係に妊娠の可能性があることを考えれば、どの段階であっても女性の意思を尊重することは当然だと思う。男女平等であるからこそ互いの肉体を配慮するのは当たり前のことだ。

*10:ていうか、それをいかに率直、かつスマートに伝え、確認するかが口説きのテクニックだと思うわ。

*11:明快さでいえば「今忙しいですか?僕と一緒に東京ステーションホテルに行ってくれませんか(あと俺のこと脱童させてくれませんか)」このくらいはっきり言ってくれた方がつきあいやすい。いくかどうかは別にして。

*12:花言葉は「愛の芽生え」だそうです。

モテるけど勘違いがすすむ話術

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モテ指南おすすめの会話術は会話を弾ませるけれど、相互理解には向かないというお話。

 

id:dlfhmさんことシャーペンさんのコミュニケーション指南とモテ指南を比較した興味深いエントリーに、サークラ、モテ、恋愛工学にはまる人を引用していただいた。

前回モテ指南は非コミュ自認の強い人にとって話術を磨き、人間関係に対する苦手意識を軽減する一定の効果があると書いた。シャーペンさんも「はじめて会う相手との雑談や目的のない雑談が苦手だった」そうで、これをきっかけにモテ指南、コミュニケーション指南を研究してみたようだ。この二つはどこが違うのか。

 

コミュニケーション指南とモテ指南の比較

シャーペンさんが実践したコミュニケーション術は吉田尚記なぜ、この人と話をすると楽になるのかに基づいている。

コミュニケーション指南のほうは、相手に興味をもって接すること、win-winを目指すこと、などが言われている。

コミュニケーション指南を実践した感想 - シャーペン雑記

amazonレビューによると以下のような特徴もある。 

  1. ホメる。すると自分が相手に受け入れられる。 
  2. 驚く。言葉の組み合わせの新奇性がキモ。
  3. おもしろがる。おもしろい要素に目を向け、引き出す。
  4. ウソを言わない。ウソをつくぐらいなら黙秘せよ。
  5. 自慢はダメ。「この人、一目置かれたいキャラなんだ」と、イメージが固定されてしまうから。
  6. 相手の言うことを否定しない。異議があるなら黙秘せよ。
  7. 「嫌い」「違う」は避け、「こんな解釈もあると思うんだけど?」とソフトタッチで。 

 

Amazon.co.jp: なぜ、この人と話をすると楽になるのかの ロビーナさんのレビュー

これまでモテとナンパをめぐる話を読んでこられた方は「お!モテ指南と似とるやんけ」と思われたのではないだろうか。シャーペンさんが実践したモテ指南は以下の通り。

  1. 挨拶とお礼を必ずする
  2. 悪口・愚痴を言わない
  3. 相手のことを質問する
  4. 小さなことでも相手をほめる *1

    サークラ、モテ、恋愛工学にはまる人 - はてこはときどき外に出る

補足するとモテ指南には以下のような特徴もある。

 5. 積極的寛容さ

  「一般に短所と見られる部分に対してポジティブなコメントをする(ただし一般論で)」*2

  ・お金を稼げない男性

   「こういう時代だから仕方が無い。女性が頑張らないと」

  ・女性をリードできない男性、話下手な男性

   「かわいい。女性がカバーするから問題ない」


 6. 自分の魅力を伝える

 →創作でもいいので相手好みのプロフィールを用意して語る*3

6については昨日ヨッピーが非常に具体的なアドバイスを出したばかりだ。 

wedding.mynavi.jp

モテ指南のうち1~5まではコミュニケーション指南とよく似ている。6は自慢と嘘を非とするコミュニケーション指南と対立するが、話を捏造せず相手に好感をもってもらえそうなことを積極的に開示していくこと自体は問題ではない。両者は一見とても似ているように見える。しかしシャーペンさんによるとコミュニケーション指南とモテ指南の実践結果には大きな違いがあった。

 

コミュニケーション指南の実践結果 

シャーペンさんの実践結果をまとめると以下のようになる。

  • 雑談が楽になった
  • 相手の反応が悪い話題でもまったく気にならなくなった
  • 感情が安定した
  • イニシアチブを取ることで余裕が生まれ、話題の変更が容易になった
  • 周囲から笑顔で話しかけられるようになった

 

結論: 職場など、仲良くして損はないところでは、処世術として有効 。

 

コミュニケーション指南を実践した感想 - シャーペン雑記

よかったね!ちなみに吉田尚記さんはラジオパーソナリティーとして毎回ゲストを迎えるにあたってこのようなテクニックを編み出したのだそうだ。ではモテ指南はどうだろうか。

 

モテ指南の実践結果

シャーペンさんはモテ指南の効果には「いいことと悪いこと両方があった」という。

いいところそのいち

確かにもてる。人とも仲良くなれる。ある意味で誰でも効果があるので、普段だと仲良くはならないような人でも、ある程度仲良くなる。

いいところそのに

さらに、ある程度の時間をすごすことで、相手のいいところやこれまでになかった面を見ることもある。

悪いことそのいち

つかれる。つまらなさそうな人が本当につまらないこともあるし、普通だと思ってた人の下種な部分を見ることもある。

相手がこちらに良いところを見せようとして、馬鹿みたいな自慢を聞かされることもある。

悪いことそのに

モテ指南はとにかくなんでもいいからほめろ!相手の事を聞け!なので、AがだめならB、BがだめならCとなり、コミュニケーションがある種の作業ゲーになる。

 

結論:モテ指南は確かに有効。
たぶん、モテ指南によりコミットしていれば、更なるモテも得られると思う。ただストレスがたくさんたまる。
会う人合う人にこれをやると、私はストレスで死ぬ。むいていない。
 

モテ指南を実践した感想 - シャーペン雑記

シャーペンさんは両者を比較して「コミュニケーション指南でも、相手が話しやすいテーマを探すことは一種のゲームのような感覚だが、作業ゲーのようなむなしさはない。恋愛工学の○○フェーズ、などはおそらくこのような気分なのだろう」という。

 

ところがこちらが「ストレスで死ぬ」と思うほど疲弊しながら話を聞いていても相手はそれに気がつかないどころか「距離が縮まっている」と勘違いして好意さえ抱いてくるのはなぜなのか。

 

モテ指南は受身な相手を慰撫する話術

聞き上手であることはコミュニケーション指南でも重要な点としてあげられている。熱心な聞き手であることは相手の話を引き出し、また相手からこちら側に質問するきっかけも作る。しかしなかにはボールを投げてもらうばかりで、いつまでたっても自分から投げ返してこない人もいる。

相手からのアクションがないケースはいくつかあるが、受身な人が目立った。
まず、「あなたは?」という質問すらろくにしてこない人がいるということを発見した。会話だけでなく、ほかの行動に関しても受身な傾向がある。
誘えば来るけど、相手からは誘ってこない。私にあまり興味がないんだな、と最初は判断していたが、この手の人ほど後から告白してきたり異性として好かれていたことが発覚した。

サークラの鶉まどかさんはこのような対応をする男性を離乳食男子と呼んだが、男性にリードしてもらうことを望み、自分から相手の会話を引き出そうとしない離乳食女子も存在する。槙野さやかさんは相手に自分の感情をコントロールしてもらおうとする態度を精神的おむつ替えと呼んだ。*4

 

このような相手と会話を続けるには、モテ指南の「相手を誉める」と「積極的寛容さ」を交互に続けながらどんな話題もこちらで拾って膨らませ、好意的に解釈して誉め続ける必要がある。

 

わたしもこれをチャットで試してみたことがある。受身で否定的、攻撃的な相手であってもモテ指南通りの受け答えを実践していると、相手はだんだん意欲的に話し始める。しかしたいていその中身は下種な愚痴と自慢と悪口で、それらを拾い続けることは精神的にかなりのダメージがある。相手はジャイアンリサイタル状態だ。「悪口・愚痴をいわない」を実践しているとそのような感想を伝える機会もない。

 

モテ指南を説く人々はしばしば相手の話を真に受けないで聞き流すことを強調する。「『札束が喋っている』と思えば仕事中、腹も立たない」と語った人がいたが、相手を喋ってる何かだと思いながら作業ゲーをこなす感覚で愛想良く笑い続ける。これがモテ指南おすすめの話術である。これは適性がない人にとってはストレスフルでなもので、相互理解には向かない。

 

会話の目的はなにか

シャーペンさんも書いているが、表面的にこのような態度をとることは相手にとても喜ばれることが多い。みんな大好きHagexさんに 心の中で毒舌という話があった。これは夫に内心毒をはきながら表面的にニコニコしつづけていたら夫がどんどんいい男になり、「尽くしてくれるいい女」と上司に自慢するまでになった、という話だ。

 

デートに誘われたい、肉体関係に合意してほしい、本命に選んでほしい、契約書にサインがほしいなど明確な目的があり、それさえ達成できれば理解されることは望まないという場合、モテ話術は非常に有効だ。

 

このような態度で一生終えることができればそれが本望と思うモテ農夫たちはこれでいいと思う。しかし会話の目的が相互理解であり、友達であれ伴侶であれ腹を割って話せる気の置けない相手をもとめている場合、モテ話術は最悪だとわたしは思う。

 

また交際前、結婚前、肉体関係にこぎつけるまでモテ話術に徹し、相手の合意を得たとたんそれまでの反動で素の自分を相手に押し付け始める人も少なくない。これは契約破棄一直線である。やられる側もモテ話術でおむつを替えてもらっているとこういうギャップに気づかない。

 

やはり多少波風がたっても自分の意思を伝え、自分に話をふってくれる相手をみきわめた方が長い目でみてよいとおもう。相手にも自分にも自由意志があり、それをテクニックで操作しようというのは相互理解ではない。「断られないテクニック」は「思い通りが通るテクニック」だ。そんな魔法を求めるのはやめないとあかん。

kutabirehateko.hateblo.jp

パーティーを抜け出そう

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今回はモテ作法にそって生きて得する人と損する人について書きます。

 

モテ作法ってダンスの型みたいなものだと思う。合コンはフォークダンス、ナンパはダンスホールで誘うダンス。交際になるとパートナーが決まっているダンス。ダンスができれば異性と手を繋いで親密なムードで身体を寄せ合うことができる。型どおりのステップなら相手と息を合わせやすい。*1

 

ダンスホールへいってダンスを踊る。手を握ったり寄り添ったりしながら相手を観察する。そこで気の合った人がいたら外に出て、お互いの希望があえば人生を共にする。

モテ指南はダンスホールでの作法を教えている。だとしたらモテ作法が向かないと思うタイプが三種類ある。

 

1.ダンスを覚えるのが苦痛な人

まず細かい決まりをぜんぶ覚えてその通りにしないと不安な人、相手がその通りにしてくれないとどうしていいかわからなくなる人がそうだ。

 

現代はwebや雑誌やTwitterの恋愛アカウント*2やナンパ塾、恋愛工学、婚活マニュアルなどなど多くの参考資料がある。

これらを読んだとき「なるほど、こうすればいいのか。やってみよ」と思うか、「覚えられないよ!できるか、こんなの!」と思うか。どうですか。

間逆のことを意見を目にしたとき、「どっちでもいいのか。臨機応変だな」と思うか、「どっちなんだよ!これじゃわからないだろ!」と思うか。

 

はじめて何かを学ぶときに混乱することは誰にでもある。でもやってみると意外にできる人もいる。特に若いうちはトライ・アンド・エラーを繰り返しても比較的立ち直りが早く、周囲の目もそれほど厳しくない。でも実践して学ぶ課程でかく恥を許容できない人、それで相手やルールそのものを責める人は厳しい。

 

2.ダンスを踊るのがつまらない人

型どおりにやるのは難しくないけれど、それが退屈でうんざりする人。こういう人もそれ以上モテ作法に従うのは向かない。

ダンスでいうならちょっと教わるとあっというまに踊れるようになって周囲から期待をかけられるんだけれど、型どおりに踊るのが退屈で、自由に踊りたくなる人。師匠を怒らせ、親を泣かせるタイプ。

 

こういう人はモテ関連の資料を目にしたときたくさんの例外を考える。また決まりに沿っていくと自分が望むステップが踏めないケースが出てくるので窮屈にも思う。

 

女性は男性のリードを受け入れるのが女性のマナーだと知っていても、デートやベッドに自分から誘いたい。ビッチだと呼ばれようがそうしたいんだから仕方がない。バイバイ、モテ作法。

男性は女性に高価な食事と酒をご馳走するのがマナーだと知っているけど、彼女は外食も酒も嫌いだし奢られるのも苦手だといっていたから、手料理と手作り和菓子と抹茶でもてなすか!と思う人。据え膳食わぬが恥でも知るか。草食系ですが何か。

 

こういう人はダンスホールで型どおりに踊ってくれることを相手が期待している場へ出て行くと、相手からびっくりされる。また意外に成功率も高いので「ダンスマナーに反しているのにずるい!」と外野にやいやい言われる。だからダンスを踊るグループには近づかないほうがお互いのためだ。

 

3.ダンスホールでの評価が低い人

たくましい男性が繊細な女性を守りながらリードするのがダンスとして美しいと考えられている場合、これに当てはまらない人にはなかなかカップルが成立しない。

ダンスホールで無条件に人気が出る要素はいろいろある。容姿や年齢、収入、話術、社会的ステイタスなどがそうだ。これでいい思いができそうにない人はダンスに参加しても嫌な思いをすることが多い。*3

 

もちろんダンスの上手さでカバーできる人もいるだろう。モテ指南をする人は苦労の甲斐あってダンスマスターになった人も多いので、「ダンステクニックを磨け」といってくる。「前提条件に当てはまらなかったら止めたほうがいい」とはいってくれない。「ダンスが向かない人なんていない、考え方の問題だ」。マーケットを広げる意味もあるのかもしれない。

 

でも実際には外の世界では評価が高くてもダンスホールでは壁の花になるしかない人もいる。一般的に女性の場合、年齢とともにダンスホールでの評価は下がる。ほかの要素が突出していない限り、ダンスに夢中な人たちからは低く見られるからあまりおもしろくないと思う。

 

実際には男性もある程度の年齢になったら主要メンバーからは「ない」と思われるようになる。特に対策がないならこうした暗黙の戦力外通告を受ける前にホールを出たほうがいい。

 

ダンスホールの外に出会いはないのか

ダンスに参加しない=恋愛に参加しないではない。ダンスはダンス、合コンは合コン、ナンパはナンパ。それをパスして伴侶と出会う人は大勢いる。ただ時代にあったダンスマナーは参加しやすいので人気がある。

 

でもダンス=恋愛だと思っていると、作法にしたがってダンスができないと恋愛自体を嫌いになったり、自分を恨めしく思ったりする。反対に「もうかなり踊ったからこんどは外でお話をしましょう」という次のステップに進めない人も出てくる。ホールの中でいつまでもスターとして踊り続けたい。こういう人は戦力外通告を受け入れるまでホールにしがみつく。

 

かつてこのダンスにあたる部分は盆踊りだった。村祭りに出れば若い男女が出会える時代があった。テニスだった時代もあるし、スキーだった時代もあった。そこへいけばそれをネタに異性と会話する機会がある。いうなれば合コンやナンパとは盆踊りのようなものだ。

 

ダンス自体はいいものでも悪いものでもない。型があれば行動しやすい。型があるからこそ演技に集中できる場合もある。でも型にとらわれていると目的を見失う。

 
kutabirehateko

恋愛について私がおもう二、三の事柄CommentsAdd Starsumimarokamo_negitororiverwomsatonariiceeyemolanshinobu11Mmcoo66seachikinbabi1234567890campanella-gyukee-ane

比類なき寝正月中に合コンのマナーとか付き合い始め・付き合いだしてからの会話の正解(!?)を解説する番組をyoutubeで観た。
合コンの伝道師という人とか合コンアドバイザーという人が東大心理学教授と一緒に合コン道を語っていた。
自分には恋愛とか結婚とかぜったいにむりだという気分にさせられた。
事前に見ていたらオフ会程度でも参加不可能だと思ったと思う。
これからも瓢箪から駒が出ることに賭けて生きていこうと思った。
Mmc

恋愛について私がおもう二、三の事柄CommentsAdd Starkutabirehatekoseachikinbabi1234567890

返信先くたびれ はてこ
みんながマニュアルに沿った合コン、恋愛、結婚をしてるなかで、マニュアル外のマイペースのほうが
目立って成果が上げられる、ということもあるかもしれず。ただ、抜け駆けだのいう妬み嫉みが発生しがちなのが面倒なところですが。
 
 
kutabirehateko

恋愛について私がおもう二、三の事柄CommentsAdd Staroo66oo66seachikinbabi1234567890Mmcyukee-ane

返信先Mmc
「ちょっとこういうノリ、ついていけない」
「ね、二人で抜け出さない?」

こうですか?!こうですよね!!
うん、確かにあとで吊し上げられる感じがする!
 
oo66

恋愛について私がおもう二、三の事柄CommentsAdd Starkutabirehatekobabi1234567890b-driveb-drivedokkanbeatsmackingFrancesco3

返信先くたびれ はてこ
このエントリー観て、まさに この曲が
腦内に、ぐるんぐるん 回った次第でございます。
 

 
kutabirehateko

恋愛について私がおもう二、三の事柄CommentsAdd Staroo66babi1234567890

返信先oo66
こいつら合コン荒らしですね。
あれ? こうやって考えると意外に合コンって紳士淑女の社交場なの?

 

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:型は特定の場でのルールで、正しいとか間違っているとかではない。ゴールキーパーが手を使っていいのはずるいとか、キャッチャーだけ座っているのはずるいとか、そういうことを思う人は新しいジャンルを確立するのがいい。

*2:っていうタイプが存在することもこの数日で知ったよ。ありがとう、ヒデヨシさん。東京姉妹さんらなんかがそうなのかな。

*3:「恋人候補」として誰かの人生に登場しなくてはならない合コンとか婚活とか俺はキツい - ←ズイショ→を読んで、最初から条件で見られて不利な場には参戦しないという意味もあるかなと思った。


妥協してアプローチした相手にふられるのはなぜか

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モテ地獄格付けランキングが低そうな人にふられると驚いたり逆上したりする人がいます。またそのような人にすてきなパートナーが出来ると世の中どうなってるんだと憤る人もいます。今日はモテ地獄的の格付けとパートナーシップの格付けの違いについて書きます。

 

場で共有するルール

モテ作法はローカルルールではあるものの、一定のグループの間で共有されるダンスのステップのようなものだと書きました。このようなダンスのジャンルのひとつとして合コンがあります。

一般的に合コンでは男性が費用を多めに負担し、女性はフェミニンな装いで男性を楽しませるという作法があります。またそこで楽しむ食事は美味であることはもちろん立地の点でも内装の点でも都会的で洗練された店であることが評価され、価格帯は高めなほどよいとされています。*1

 

こうした格付けは人の尊厳を相対化したものではありません。これは合コン界がめざす理想の合コン像を考えるとやむをえないことです。恰幅がよく長身なバレリーナが「瀕死の白鳥」の舞台から外されるのは差別だとはいえません。

 

しかし合コン参加歴300回という東京姉妹によれば合コンでカップルが成立する割合はわずか1%。100回合コンに参加してパートナーが出来るチャンスは1度あるかないか。まずは異性の手を握ってみたいとフォークダンスに参加した人がそのあと個人的な交際に発展しないのと似ています。いや、もしかしたら体育祭や学園祭のフォークダンス以下かもしれません。

 

つまり「とりあえず異性と騒ぎたい」「合意がえられれば一夜をともにしたい」ではなく人生をともに楽しむ伴侶を探したい人にとって合コンはあまり生産的ではないということです。

 

「プロム脳」

ところが人は若いうちに目にしたもの、耳にしたものの影響を引きずりやすいもの。情報の更新がない場合は特にそうです。恋愛=「スクールカースト上位者がキャッキャウフフしていたあれ」という情報が更新されていない人は恋に落ちると高校生がやりたがるようなことをするものだと考え、大人のつきあい=「合コン」という情報が更新されていない人は男女交際に合コンの作法が期待されているものと考えます。

 

こうした観点から恋愛市場全体、ひいてはパートナーシップの向き不向きを判断してしまう思考を「プロム脳」と名づけたいと思います。プロムとは「キャリー」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などに出てきたハイスクールのダンスパーティーのこと。あれを基準に一生恋愛や男女交際を考え、パートナーを持つとはプロムのお相手を持つことだと考えてしまう人のことです。

 

モテ地獄の亡者のみなさんは上位に君臨しようと下位で呪詛を吐いていようと基本的にプロム脳です。自分のことも他人のこともプロム脳で採点し、点が高ければ喜び、低ければ不満を抱きます。

 

こうした発想をもっている人は非モテを馬鹿にします。自分がモテ地獄層のどこにいるとしても、プロム脳的絶対値に照らして下にいるものは下なのです。体型がダンス向きでない、会話がいけてない、年齢がいっている。なんでもOK。下層民であっても採点の厳しさだけはモテ地獄上層民も舌を巻くような目を持つものもいます。

 

プロム脳はなぜ誤爆するのか

そしてこういう人はなぜか「下層民にアプローチすることは上層民にアプローチするより簡単だ」と考えることがあります。壁の花になりそうな人、あるいはアプローチを断られそうな人なら、自分に応じるのではないかと思ってしまうのです。*2自分では妥協したつもりでいるので、断られるとひどくショックを受け逆上することもあります。

 

しかし考えてみてください。「瀕死の白鳥」に適役でないからといってグラマラスなオペラ歌手が自分を卑下することがあるでしょうか。彼女、あるいは彼はプロムの外で大スターである可能性もあるのです。「妥協してつきあってやる」に応じるわけがありません。

 

みどりの小野さんに身の程知らずな勘違いをしてきた男性がいたようですが、これも一種のプロム脳ではないかとわたしは思いました。少なくともはてなブログ界隈でみどりの小野さんをちょろいと考える人はいないと思います。わたしだったら「すきそうな本を最低でも何冊か押さえておかなきゃな」「福島弁に通じておいた方がいいのか、地元の方言ネタを仕込んでいくべきか」くらいは考えます。*3まさか電話いっぽん、アポなし凸で自分の魅力を評価してもらえるとは考えません。

 

デパートでは単価の高いフロアの店員ほど、どの客にも慇懃に接します。金買取の仕事をしていた知人によれば、よれよれのポケットからインゴットを出す人はちょいちょいいるそうです。プロム脳的に格付けがさほど高くなさそうなごく普通の男性、女性であっても、それを基準に卑屈に生きているとは限らないのです。よもや妥協して憐れんでやろうという人に感謝するわけがありません。

 

パーティーを後にして

多くの男女がやがてパーティー会場をあとにして、それぞれの評価軸をもってパートナーを探します。そして自分基準の世界一を心から愛すること。これがパートナーシップだとわたしは思います。

 

プロム脳的に無敵のステイタスを誇っていても目の前の誰かにとって一番になれないことはあります。そんなときモテ地獄のステイタスを絶対値だと思っていると、「自分を磨く」を「自分をモテ向きにカスタマイズする」だと勘違いします。そしてせっせとモテ作法を学んだり、より複雑な技術を身につけようともがいたり、絶望して世の中を怨んだりします。また愛されるとはモテ作法を守ってくれること、プロム脳的にステイタスを上げる努力をしてくれることだと考え、相手に無理を強いることもあります。

 

自分を磨くこと。人を見下したり、卑屈になったりしないこと。折り目のない新札でもくしゃくしゃの古札でも一万円には一万円の価値があり、人の価値は同じです。

これはプロム脳で自己採点が低い人自身にもいえることです。あなたがモテ作法が求められる場で主役どころかモブにさえなれないとしても、一生プロム脳で自分を採点をする必要があるでしょうか。

 

うしじまいい肉さんがゲーム・オブ・スローンズのティリオンをどう評価したか、ぜひ知っていただきたいと思います。わたしもこんな感じで誰かに評価されたらうれしいべな、と思ったことでした。

ch.nicovideo.jp

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:このような作法でより評価されるには、まず首都圏で生活している必要がある。男性は経済的に余裕があればあるほど有利、社会人で聞こえのいい仕事をしていればさらに評価が上がる。女性は「若くてきれいな女の子」という記号に近ければ近いほど有利なので未成年以上、社会人なら新人圏内の評価が高い。

*2:モテ強者である木嶋佳苗を侮った人々もそうだったのかもしれません。

*3:なんでなんでちゃんをデートに誘った男もいたようですが、やはりはてな民ならブログに一通り目を通していくでしょう。鯖カレーさんに会う前に最新の増田ネタを仕込む、feitaさんに会う前にアイコンのアニメをチェックする、あざなわさんに会うなら受け売りでうかつな映画評をしない。こうしたことは誰もが自然に思うことだと思います。

欠損女子支持宣言

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欠損女子に賛否両論の声が集まっている。普通に暮らすとは多数派に擬態することではない。わたしはあの店を支持したいと思っているので、その理由を書きます。

 

「欠損女子」とはなにか

話題になっているのはこちら。

wotopi.jp

写真に写っているかわいいお嬢さん方は琴音さん、幸子さんという。琴音さんは右腕に義手を使っており、幸子さんは右足に義足を使って暮らしている。二人は「切り株」を意味する「ブッシュドノエル」というコンセプトバーで欠損女子好きな客を相手に働いている。

 

琴音さんはふだん精巧なマネキンのようないわば人体型の義手を使っているそうだが、店ではあのフック船長がつかっていたフック型の義手を使っている。それで裁縫ができるというのだからかなり使いこなしている。

「私もフック義手は持っているけど人前では全然つけないですよー。お裁縫をするときくらい。人前で使うとびっくりされちゃうから、普段はいつも、装飾義手。毎日つけてるからコレ、こんなに汚れちゃった」

人体型よりあきらかに便利なフック義手を使わないのはやはり無用な注目を集めたくないからだろうと思う。幸子さんはコスプレイヤーだ。義足キャラは少ないので義足を生足に見せる工夫をしていたという。

「表現することが好きなんですよね。コスプレも、本当は欠損した状態でできたら開放的だと思うんですけど、コスプレ元のキャラが欠損していないので、おのずと義足をつけて、脱脂綿を巻いてうまいこと自分の脚っぽく見せていました」

こうした工夫をするコスプレイヤーは多い。自分をキャラに近づけるため髪を染める、ウィッグを使う、ヒールの高い靴を履いたり、カラーコンタクトをつけたりするのは常識だ。

 

そこにコスプレイヤーの幸子さんではなく、モデルとしての幸子さんに魅力を感じる人があらわれた。瓶底眼鏡や歯列矯正、欠損などマイノリティなフェチを中心に撮影する映像作家のsgutsさんだ。

そんな中、sgutsさんに声をかけられ、はじめて映像の中で本来の自分を出し、そういうのがいいと言ってくれる人がいたってことにびっくり。喜んでくれる人がいるから、私って義足で良かったのかなって

こうして二人はふだんの自分のありのままの姿に魅力を感じる人が集まるコンセプトバーで働く ことにした。琴音さんは人目をはばからずフック義手でマドラーを使っている。幸子さんも生足に見せなければと思わずにすむのは楽だろうと思う。

 

彼女らが暮らしやすく働ける場がみつかって、そこにフェチの人たちが訪れる。これはいいなと思った。これは彼女たちにしか出来ない仕事だ。

 

普通に暮らせという増田

これに異を唱える増田があらわれた。

普通の人たちと同様に扱うなら、そこをアイデンティティとすんの?っていう話だよな

課題はあるとしても目指す理想としては普通の人たちの中で普通と同じように暮らしてもらおうねーって時に(障害者雇用促進とかな)

私達は欠損してます!とか言い出したら、は?って思うのは当然だよな

欠損女子とか超キメェわ

 この増田は普通に暮らすこと=多数派のライフスタイルを踏襲することだと勘違いしている。しかし普通に暮らすとは多数派に追いつけ追い越せを指すのではない。マイノリティであるがゆえに当然の権利を制限されることがないように、社会が当然の協力を惜しむことがないよう配慮すべきという意味だ。

 

これには身体的魅力を誇示することを商売に結びつける権利も含まれる。女優が美貌で仕事をえるのは当然であり、ニーズにあった体型のモデルが雑誌やステージを飾り、高身長の女王様がもてはやされ、小柄な女性がアンティーク着物を見せ付けるのは自然淘汰の結果である。それらの席はごく少数しかない。欠損フェチをときめかせるスタイルを持つ魅力的な女性は少数であり、彼女らがその席を埋めるのは不当なこととはいえない。誰もがウィニー・ハーロウになれるわけではない。

matome.naver.jp 

眼鏡男子がもてはやされる世界があり、童顔がもてはやされる世界がある。魅力的な義手、義足がもてはやされて何が悪いのか。これを非難するのは豊かな胸にさらしを巻いて押しつぶせとか、高身長が目立たないようにヒールを履くのをやめろというのと同じだ。ピーター・ディンクレイジに小人役をやるなというのか。健常者フェチを押し付けるなといいたい。

 

少数派の身体を消費することは差別行為なのか

「しかし身体的特徴に注目を集めることを望まない人もいる。彼女たちがそれでいいと思っても同様の欠損を好奇の目で見る人が現れれば社会的抑圧につながるのではないか」

と思う人もいる。これはほかの身体的特徴すべてにいえることで、義手義足に限った話ではない。

眼鏡男子がもてはやされ、眼鏡フェチから執拗にからまれて迷惑する男性もいるだろう。貧乳、巨乳関連のまとめは月に何度もホッテントリ入りしている。あれに辟易としている女性もいるだろう。欠損フェチを不名誉なこと、差別的な表現だというのなら、その他のフェチについても同様の配慮が必要なはずだ。 

 

巨漢、高身長、低身長、胸が小さい、大きいなど他人の身体的特徴を「確かにそれはマイナスポイントだけど、自分は寛大だから気にしないよ」と言って来る人は最悪だ。こういう人は貧乳やビン底眼鏡がすきなのではなくコンプレックスが好きなタイプだ。こういうタイプは肉体ではなく見下し対象を消費しているのだ。しかしフェチ自体は必ずしも他者を見下すものとは限らない。

 

見世物とは言い換えればショービジネスだ。金髪碧眼がステージに上がることはよくて、欠損を持つものがステージに上がることは差別だという思想こそが差別だとわたしは思う。それは未熟な子供や認識力があやふやな病人や高齢者を無理やり見世物にすることとは違う。

 

「普通に暮らす」とは個性を表現すること

水森亜土はそのむかし、両手にマーカーを持って歌いながら絵を描いていた。

www.youtube.com

ボーダーのシャツにサロペットを着てアクリルボードの前に立ち、即興なのか打ち合わせがあるのかわからない歌を歌いながらすいすい独特のファンシーな絵を描く亜土たんは、あのままのスタイルで75歳になった。いまもジャズのライブとイラストの仕事を続けている。

 

こりん星から来たといっていた小倉優子はママタレに転向して「あれはネタです」と告白した。みなが納得した。しかし亜土たんはキャラ設定で亜土たんをやっているのではない。だから「もうそろそろ・・・」と普通のおばさん、おばあさんになることはなかった。あれが亜土タンの普通だ。亜土タンにサザエの母のような生き方をしろというのは自分を殺せというのと同じだ。

 

多数派と違うことを隠せ、披露するなという人に言いたいのは、多数派はつねに多数派であることを誇示し続けて生きているのに、少数派にそれをやめろというのはどういうことかということだ。それはあんた、わがままってもんですよ。

 

「義手も義足も、メガネと変わらない」

「欠損女子」について思うことは、「欠損」って嫌な言い方だな、ということだ。でもなんかの用語なのかもしれない。医学用語なのかフェチ用語なのかわからないけれど、それで通じる世界があるのだろう。「統合失調」や「自閉症」だってたいがいないわれようだけれど、いまのところそれが正式名称だから話が早いもんな。

 

幸子さんはこう語る。

「面と向かって言う人がいるんですよ、『かわいそう』って。『何がかわいそうなの?』と聞くと、『手がないから。不便でしょ?』って。いやいや、健常者のあなたでも、不便でできないことはあるでしょう?『あなたが出来ないことを私ができることもあるし、お互い様じゃない』って言い返しちゃう」

そうだよね。ほんとこれ。琴音さんはこう語る。

「私たちを見て引いちゃう人もいるけど、別に引くことないですよ。たとえば、今は車いすは有名になって『変』と思う人はいないと思いますが、私たちのことも、知ってもらえればそうなるかなって。義手も義足も、メガネと変わらない、補助してもらっている感覚です。もうちょっと、皆の見方が変わったら嬉しいな」

こういう議論がおきて、いろいろな人が考える機会ができたことも彼女たちとあの店を作った人々の功績だと思う。応援したい。

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欠損女子について骸骨女子が思うこと

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「むかしはDカップだったんですよ。いや、Dはいいすぎかな。Cってところですね」
と、「骸骨女子」モデルのはてこさんは笑う。

 

「でも二十代後半から徐々に痩せてきて。特に食事制限をしたりはしていませんでした。いろいろ重なって知らないうちに少しずつ小食になっていたんですね。気がついたらBMIが15以下になってた。そうすると色々なところが痩せてくる。靴もそうだし、ブラのカップもサイズダウンしてた」

 

「ワイヤー入りブラが肋骨に当たるようになって、痛くてつけられない。サイズがあうものがぜんぜんない。カップつきキャミソールが出たときは『これだー!』って思いました。でもいまはノンワイヤーでもいいブラが増えてきていますよね」

 

ドレスが着られない

「友人の結婚式にブラックフォーマルのロングドレスを着たんですよ。*2ああいうドレスって専用の下着があるんですけど、どれもブカブカ。パットをいれてもデコルテに骨が浮いちゃう。鏡を見てがっかりしました」

「5年くらいまえかな?結婚式をしなかったので、ウェディングドレスだけ着ようってことになったんですね。そのときもデコルテが大きく開くドレスは痛々しくてダメでした。背中が大きく開いているものも写真で見ると骨!って感じでキツい。『ああ、もうわたしは女としての魅力がないんだ・・・』って落ち込みました。ずっと長袖、詰襟でいくしかないなって」

 

骸骨女子ブーム

「だから骸骨女子モデルのオファーが来たときはびっくりしました。こんな体型を魅力的だと思ってくれる人がいるんだなって。それまで女性の身体は丸みを帯びて柔らかくなければいけないと思っていたんです。特にバストとデコルテまわりは豊かなほどいい。おっぱいの魅力って絶大じゃないですか」

 

「はじめて骸骨女子モデルさんを見たときは驚きましたね。医療的措置として乳房切除をしている方もいて、正直痛々しく感じた。でもそこに興奮する人もいると知って、世界は広いな~って(笑) タトゥーをいれている人や、撮影のときヘナでアラベスクを描いたりしているモデルさんもいて、こんな風に胸を楽しんでいいんだ!って目から鱗でした」

 

「これ以上痩せたいとは思いません。やっぱり痩せると風邪を引きやすいし、体力も落ちる。できればもっと太りたいです。それに骸骨モデルは食事制限があって、摂取カロリーが足りてない人、摂食障害がある人は採用されないんです」

 

ありのままでいる開放感

「ふだんはノンワイヤーのブラにカップつきキャミを重ね着しています。タイの女装動画にブラをどんどん重ねて胸を盛るというのがあるんですよ。『あ、これぴったりめのニットにいいじゃん』って思って。ノンワイヤーブラを着けはじめて、キャミをあらためて買うのが面倒だったというのもあります」

 

「着物を着るときも胸元にはガーゼハンカチを入れます。襟元が浮いていると貧相になるから。腰周りにはバスタオルを巻いてます」

 「でもやっぱり面倒なんです。できればこのスタイルのまま似合う服を着たい。この体型でなければ着られないドレスを着たい。体型を世の中にあわせるんじゃなくて」

 

「『骸骨女子』は何も隠さなくていいから楽です。世間基準から離れて自分の身体を再定義する感じ。これをかわいそうだと思う人もいるかもしれないし、摂食障害の人によくないモデルを与えることになるという人もいます。でもそれってわたしの身体が社会的に『よくないモデル』ってことじゃないですか。好みはあって当然だけど、社会的にいい身体、悪い身体があるっていうのは、違うと思うんですよね」

 

少数派の身体は個性か烙印か

「もし自分が社会的に歓迎されない身体的特徴を武器に仕事をするとしたら何かな」と想像してみて、上に書いたようなことを思った。BMI15っつったら摂食障害なら入院レベルだで、十分該当するやろ。せっせと食べとるけれどもなかなか思うようにならんで、服でも靴でも困るわ。

 

欠損を生計の手段とすることには非常にネガティブなイメージがある。かつて身体欠損といえば、本人の意思と関係なく見世物小屋に売られたり、ほかに生計を立てる手段がなく傷痍軍人として物乞いをしたりするものだった。いまでもインドでは貧しい家の子供を買い、故意に身体に欠損を作って物乞いをさせる組織がある。屈辱にまみれ恥部をさらして糧を得る。確かにこうした形で人が追い詰められることはみなでなくしていかなければならない。

 

しかし一方で誰もが少数派の身体を隠して暮らしたがっているという認識を広めるのは間違っている。乙武さんは身体に欠損を持つことは個性ではなく、スティグマ(烙印)として認識されやすいと書いている。ネガティブなイメージを持つ身体的特徴を蔑視する文化は醜悪だ。しかしそのような烙印を押しているのは誰かという問題がある。

 

わたしは痩せていることについてはあまりネガティブなことを言われないけれど、高身長であることについては「お気の毒に。でも自分は寛容な人間なので気にしません」という一方的な哀れみをかけられることが時々ある*3大きなお世話だと思う。

 

実際高身長を気の毒なほど気にして猫背になる女性は大勢いる。「大女」は醜女の代名詞だった。しかし西洋では「丈高く」は肌や瞳の美しさと並べて描写される美の特徴だった。では高身長な女性にどう接するのが「正しい」のか。誉めればいいのか。「それほど高くない、普通だ」と慰めればいいのか。高橋ゆかりはトルコで「幸せじゃないから太らないのだ」といわれてショックを受けた。*4トルコではでっぷりとした女性こそ幸福の象徴であり、日本人の普通体型は貧相なのだ。

 

わたしはこういった問題に正しい態度があるとすれば、誰の身体にも敬意を持つこと、個人的にどう思うかはともかく、うかつに身体的特徴に「良い」「悪い」とレッテルを貼らないことにつきると思う。また本人が望まない場でそれを性的に消費しないことと同じくらい、本人がそれを誇示する権利を抑圧しないことだと思う。

 

「欠損女子」を自称する幸子さん、琴音さんは少数派の身体をもったふつうの女性たちであって、その個性は「障害者」という言葉ではくくれない。彼女たちが望む対応を一般化することはできない。また彼女らに障害者を代表することを求め、行動を制限するのは適当ではないと思う。

 なお、「女子は二十代まで」 というご意見につきましては編集上の都合であって、日ごろ女子を自称しているわけではないことをお伝えしたいと思います。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:バニーガールの面接受けたことがある。

*2:痩せる前に購入した。

*3:これも「スマートなのはよいこと」「高身長は悪いこと」という社会的認知のゆがみからくることだと思う。実際には高身長では困っていないが、痩せていることでは切実に困っている。がん保険に入れなかったり、サイズの合う細い靴がみつからなかったりするからだ。

*4:トルコで私も考えたより。何巻かは忘れた。結婚後、まだ子供がいなかったときの話。

ヘレン・ケラーとグラハム・ベル そしてマーク・トウェインの友情

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障害を持つ人に普通に接する、敬意を払うとはどういうことかを、わたしヘレン=ケラー自伝―三重苦の奇跡の人に綴られたグラハム・ベル、そしてマークト・ウェインの態度から学んだ。

 

全盲、聾唖であった三重苦の人ヘレン・ケラーは伝記のなかで生涯の友として二人の人物の名前を挙げている。一人は電話の発明者であるベル博士ことアレキサンダー・グラハム・ベル、もう一人は「ハックルベリーフィンの冒険」などでおなじみの作家マーク・トウェインだ。

 

ベル博士とヘレン

ベルの母は聾者で、ベルの父は読唇術を完成させた。ベル自身も聾者の妻と四人の子供をもうけ、生涯をともにしている。祖父は吃音治療を研究し、ベルは聴覚障害者が話す技法を発明した。ことばを理解し、伝えることに生涯を費やした一族といえるかもしれない。

ベルは父親と仲がよく、二人は一種独特の話題を共有していた。

・・・おふたりはよく、なにもお話しにならずに、ただしずかにたばこをくゆらしながら、川を上下する船やボートをながめていらっしゃることがありました。
 そんなとき、どこかでききなれない小鳥が鳴くと、
 「おとうさん、いまの声は、どんな記号であらわしますか。」
 と、博士がおたずねになり、いっしょうけんめい、その声を口にして、くちびるの形を研究し、ああでもない、こうでもないと、いつまでもおふたりで、発生学の研究にむちゅうになられるということでした。

ベル博士とヘレンの友情はヘレンが6歳のときにはじまった。それは深くあたたかいものだった。ベルはヘレンを一人の女性として敬意をもって接し、同時にヘレンの苦悩に誠実な同情を寄せた。

ある日博士はヘレンに電信柱に手のひらを押し付けてみるようにすすめる。ヘレンは電信柱の低い振動をはじめて感じ、衝撃をうける。

「いつも、こんなふうに、ブーンブーン、うなっているのですか」
「そうなんだよ。ま夜中でもね。・・・これはね、人生のものがたりをうたっている声なんだよ。人生というものは休むことがないからね。」
「このはしらの上にある電線は、人が生まれたり、死んだり、戦争がおこったり、会社がつぶれたり、もうけたり、しっぱいしたり、成功したりということを、たえず電信局から電信局に、そして世界中につたえているんだよ。はしらに手をおいていると、わたしには、わらい声や、なき声や、けんかしたり、なかなおりしている人間のようすが、手にとるようにきこえてくるんだよ」

ベル博士はヘレンに雨の日の樹の幹から伝わる振動を味わう楽しみも教えている。二人の間には器質的な隔たりがあったが、ベル博士は知的な会話により、またヘレンだからこそ共有できる鋭敏な感覚によって、友情を深めた。

 

ベル博士がヘレンの自立によせたメッセージ

当初ヘレンは大学を卒業したら教師サリバンとともに人里離れたところで書き物をして暮らそうと考えていた。しかしベル博士はヘレンをこのように激励した。

「あなたの仕事をきめるのは、あなたではないんだよ。わたしたちは、ただ宇宙を支配している大きな力の道具にすぎないのだ。いいかい、ヘレン。じぶんを一つの型にはめてしまってはいけないんだよ。・・・できるだけ多くのことをしてごらん。あなたが一つでも多くの仕事をすれば、それだけ、世の中にいる目の見えない人や、耳のきこえない人をたすけることになるのだよ。」

「こんなにきびしくわたしをはげましてくださったかたは、ベル博士のほかにはありませんでした」とヘレンは書いている。しかし深い友情と信頼に裏打ちされた激励とは別に、ヘレンの人生を操作しようとする善意の人々も大勢いた。

 

「神様がおあたえになった天職」

ヘレンが在学中に書いたさまざまな手記を通して「三重苦の乙女」に多くの注目が集まった。そのような人々の中には全盲聾唖の「障害者」が生きていくにはこれぞ最善と思うプランを持ってヘレンの元に押しかけてくる者もいた。

 

教師であったサリバンがかつて弱視というハンディを克服するため在校したパーキンズ学院の院長アナグノスもその一人だった。アナグノスはヘレンを学院にひきとり、学院の中で暮らすことを申し出たが、サリバンはヘレンが健常者の間で暮らす道を模索することをすすめた。

これがもとでサリバンとアナグノスの間には亀裂が入り、ヘレンとサリバンは学院を去った。アナグノスは「サリバンは恩知らずだ」と激怒した。しかし後にヘレンが語るようにこのサリバンの選択こそがヘレンを世界的な活躍へと導いたのだった。

 

またヘレンが大学で学問を学ぶのは無駄なことだという友人もいた。「それよりも視覚、聴覚障害の子供たちのために働くことこそ人類全体の益になる」と彼女はいった。

「それこそ、神さまがおあたえになった天職です。あなたはそれにしたがう義務があると思います。」
そのためにお金のことは、なんとでもするから、わたしにまかせてほしいともいいました。

これに対してサリバンはせめてへレンが大学を卒業するまで待ってほしいと懇願するが、相手はいっこうに聞き入れず、それどころか夜を徹して何時間もの議論をぶつ。ヘレンとサリバンはついに反論することに疲れて黙り込んだが、それを見た友人はこれを同意と受け取った。

・・・その人はあくる朝、わたしたちがまだねているうちに家をでて、ニューヨークとワシントンに出発していました。そして、いろんなかたがたに、ヘレン・ケラーはこういう事業をはじめようとしていると、ふれてまわったのでした。

これはヘレンを支援してきた人々の間に一大論争を巻き起こした。ヘレンの学費を支援していたロジャース氏をはじめ、グラハム・ベル夫妻も事態に困惑した。そしてこのロジャース氏の代理としてクレメンス氏ことマークト・ウェインが討論の場に姿を現す。

 

クレメンスとヘレン

話は前後するが、ヘレンとクレメンスの出会いはヘレンが14歳のころまでさかのぼる。ヘレンはあるパーティーで著名人たちに紹介されたのだが、そのなかの一人がクレメンスだった。

・・・ベル博士とサリバン先生のほかには、これほどわたしを愛し、はげましてくださったかたはありません。
 わたしは、手をにぎりあったそのときから、もうこのかたは、わたしの友だちになってくださるかただな、ということがわかりました。

クレメンスは面白おかしく話すのが上手で、初対面からヘレンを大いに笑わせた。しかしこの機転はときにヘレンに無神経な言葉をかけるものを痛烈な皮肉でやっつけるために使われることもあった。

クレメンスさんは、じぶんをいつも皮肉屋だといっておられました。でも、いわゆる皮肉やさんのように、卑劣な、見て見ぬふりをするようなことは、けっしてありませんでした。

二人の友情を示すエピソードは数多くあるが、彼の誠実さはつぎの一文に集約されていると思う。

クレメンスさんは、目の見えない、耳のきこえないわたしがそこにいるということなど、まったく気がつかないというようにふるまいながら、それでいて、ひじょうにこまかく、わたしのことを考えてくださるのでした。わたしには、それがよくわかりました。

 

クレメンスの主張

さて、このような関係を築いてきた皮肉屋で頭の切れるクレメンスがヘレンの後見人として討論に立った。彼は「障害者に学問は無駄である、福祉事業に打ち込むことこそ神の御心だ」という主張に対してこのように返答した。少し長いけれどそのまま引用したいと思う。

「わたしは、こんどの計画をおたてになったご婦人とちがって、神さまのお考えがどこにあるかということはぞんじません。しかし、わたしはロジャース氏のお考えがどこにあるかということは、氏の代理として、はっきりぞんじております。


 ロジャース氏は、ご婦人のすいせんになる神さまのご事業とやらには、一文のお金もだせないとおっしゃっていました。そのご婦人は、なかなか神さまのみ心をよくごぞんじでおられるらしく、さきほども、不幸な児童のために学校をたてるということは、とりもなおさず、神さまのご意思にそうものだと、きっぱりおっしゃいましたが、わたしにいわせれば、神さまのご命令書もおもちにならないで、よくもそれが神さまのご意思だなどと、おわかりになったものだといいたいくらいです。たぶん、神さまから、代理人としての委任状でもうけておられるのでしょう。


 そうでなければ、とくにこの仕事だけが神さまのご意思で、ほかの仕事はご意思にそうものではないなどと、おっしゃれないはずです。」

クレメンスのこの言葉が決定打となってこの件は決着がついた。ヘレンはこの後も善意のレール*2にヘレンを乗せようとする多くの人々と出会う。彼らはヘレンを聡明でユニークな人格をもった一人の女性としてではなく、「三重苦の障害者」としてみていた。

 こういう友人たちはきまって、わたしがいかに無力であるかをしめしてから、もしじぶんの計画にしたがえば、名誉やとみがえられるばかりでなく、同時にそれが人類のためになることだ・・・ととくのでした。

 

対等な関係で支援すること 

 支援するとは相手にかわって何が最善かを決定することではない。責任能力のある成人が仕事を選ぶとき、世間を知らない子供を相手にするように手取り足取り差し出がましく口を出すのは対等な関係とはいえない。

しかしなぜか器質的なハンディを持っている人を支援したいと思うとき、そのような口出しを支援と勘違いすることがある。自立した人間ではなく「保護してやらなければならない弱者」だと思ってしまうのだ。そこに悪意はないとしても、善意に潜む思い上がりには注意しなければならないと思う。

 

グラハム・ベルとクレメンス氏ことマーク・トウェインヘレン・ケラーに器質的な疾患を乗り越えろとはいわなかった。彼らはすすんでヘレンと会話する術を学び、ヘレンが支障なく暮らせるよう細やかな配慮をした。しかし神に変わって彼女にとっての最善を決定し、ヘレンの尊厳を奪うようなことはしなかった。

「ハンディのある人とふつうに接する」という言葉を目にするとき、この二人のことを思う。彼らはヘレンを自分たちと同様、サポートを必要とするひとりの人間としてみていた。見習いたいと思う。  

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:ハロウィーンの夜にガチの吸血鬼少年と出会った少女。

*2:そのなかにはヘレンを看板にひともうけしようという者もいたことだろう。

はてな村のPV発表ブログ粛清について思うこと

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はてなブログで収入を得たこととそのノウハウを公開するブログに対する粛清がはじまったようですね。

わたしも少し前にGoogleアドセンスを使うようになったので、いろいろ思うところがあります。*1酔った勢いで書くよ。

 

「文章を書く」の文章とはなにか

粛清側の方々のブログを読んだ感想をわたしなりにまとめると「ブログは本来読んでもらえる文章を書く場」「金儲けするのは悪いとはいわないけど、もっとスマートにやれ」ということじゃないかと思います。

粛清側のみなさんもブログをきっかけに単著を出していたり、アフィリエイトを貼っていたりするので、「それ自体は悪いことではない。でも、」と話が続く。自分たちの文章は金儲けのためのものじゃない。金儲けを目的にしていることを隠そうともしないのはどういうわけだ。

そういう方に対して思うのは、出版社が同じだけどラインの違う本を手にとって憤慨しているんじゃないかなということです。

 

「ブログって人が日々のつれづれを書く場のはずなのに露骨な金勘定してる!」

っていうのは

「ここは文芸書を出す会社だったのに手っ取り早い自己啓発の本ばっかり出てる!」

っていうのと似ていると思う。

 

たぶんブログ収入をえることと企業に勤めることの相違を分析したり、起業を視野に入れたブログ運営の話を書いたり、あるいはブログ収入を得た実感を叙情的に「読ませる」文章で書いていれば文句はないんじゃなかろうか。

だけどああいうブログはそもそもそういった意識高い系の理念に基づいて書かれていない。逆にいえば粛清サイドのみなさんは単著を出している方も多いわけだけれど、「なんだよ、単著を出すまでの具体的な話がどこにもないじゃん!」といわれても困るのと同じなんじゃないでしょうか。

 

金勘定を見たい層はどこか

一方ではてなにはむかしからIT関連の技術について延々書く人がいるし、*2時間管理や仕事の割り振り、人事についての覚書みたいなものはものすごくたくさんある。これらもある意味飯の種だよね。*3

 

わたしはブログでお金を稼ぎたいと思っている人たちにとってPVがどれだけ伸びたとか広告をどこに貼ったらよかったという情報はそれらと似たようなものだと思ってる。実際前述の仕事ノウハウ的な話では何パーセント収益があがったとか収入が倍になったとかお金の話はふつうに出てくる。

だとしたら具体的な数字と実例があるほうが、言い換えたら露骨に書いてくれたほうが内情がわかって参考になるよね。成功も失敗も。

 

なのでわたしはあざなわさんの意見に共感を覚えた。

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

露骨な内輪話はイメージダウンに繋がりかねないからその辺考えろと。「クリックお願いします!」をみて「うへー」と思う人が増えれば売り上げにだって響くだろうと。炎上パン屋みたいになるぞってことだと思う。それは商売のやり方としてあかんやろ、というのはひとつの考え方だと思いました。

 

月に数万円、数千円は小銭なのか

最後に「そんだけブログにつぎ込んでも生活できるレベルの収入にさえならないのに」という意見について。これについては粛清側のみなさんはお金持ちなんだねえというのが素朴な感想です。世の中には自宅でブログ更新しながら数千円自由になるお金が手に入ったら御の字という人もいるんだよ。

 

これといった学歴も職歴もなく、年齢的にも採用される仕事がどんどん減っている。諸事情で外に出て人と会うことも難しい。そんな人でもうまくやればブログから収入を得ることはできる。そりゃ誰もがイケハヤさんになれるわけじゃない。*4でもそこまでじゃなくても自分の手で何かを育てたり、そこから自由になるお金を作れるということが自信になって、現実的な助けになる人が世の中にはいるよ。

 

名もなきライターさんはランサーズに登録してハムスターの動画をとるところからはじめて、いまや月収100万を叩き出す一流ライターになった。はじめの収入は微々たるものだったと思うけれど、統合失調1級で自宅から出られなくても自分の手でお金を稼げるという喜びがなもさんをここまで押し上げたんだと思う。

 

「こういう道もあるんだな」「それで暮らしている人もいるんだ」と思うことが、大袈裟じゃなく絶望から人を救うこともある。そこからはじまって交流する仲間ができたり、*5創意工夫の成果で自信をつけたり、それから別の道に挑戦する気になる人だっている。それはね、それなりの仕事を持っているのに左団扇でブログ飯を夢見て脱サラする人たちとはルートが違うわけ。

 

 ただ、あまり強く批判する気にもならないのは、僕はブログで稼がなくても食べてはいけるので、生きていくために仕事としてやっている人を「ガツガツしている」とか言うのも、それはそれでエレガントではないから、なんですよね。
実害を被っているのか?と問われたら、別にそんなこともないし。

「プロブロガー」と「白いたい焼き」 - いつか電池がきれるまで

嫌味じゃなく、お医者さんとか都心のOLさんにはそういうのぴんとこないかもしれない。そりゃ理解不能な世界だろう。わたしなんか圧倒的に逆のベクトルで生きてきたから想像することがぜんぜん違うよ。コンビニバイトすら断られる世界があるの。*6

 

かねかねうるせえじゃねえよ。かねがあったら人生かわる人もいるんだよ。今月映画いけるな、本買えるなって思ったりすんだよ。家族に遠慮せずお茶飲みにいけるな、とかあるんだよ。西原理恵子も書いてた通り、金で自由が買えたら世界が広がるんだよ。それを見下す必要がある?

いいじゃん、PVに一喜一憂してたって。ダイバーシティとかいうんでしょ、最近は。

 

それはケーキじゃなくてパン

アフィリエイトや広告収入でがんばる人がみんな日々の暮らしにも困る暮らしをしているとはいいませんよ。寝てても山のような利息が入ってくるし、何もかもメイドと執事がやってくれちゃうから退屈で仕方がなくてやってる人もいるかもしれない。でも月に数千円、数万円のお金がとても大きな影響を持っている人もいる。これで家を出られるな、とか。

 

まっとうなルートで順調に学歴を積んで資格をとって余暇でブログやって狙ったわけじゃないけど単著もでて、そういう人生もあるだろう。そういう人の話にも気づきはあるけど、雨後の筍のように似たり寄ったりの広告配置とタイトルのサイトの背後にもさまざまな人がいて、読んでいると思うところがある。下衆な話かもしれないけれど、わたしはそれも読んでて面白い。育成ゲームみてるみたいな感じがある。今後も一喜一憂を見せてほしいと思うわ。

 

わたしの個人的なお楽しみコンテンツの存続のためにも、自分のブログからお金が生まれることで人生観が変わりつつある人たちのためにも、あんまああいう人たちを凹ませないだげてよ、って思う。まあ古参から何か言われたくらいで出て行くとは思わないけどさ。*7

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*1:広告貼ってなかったけどPV見れるって気がついてすぐこんなの書いたしね

*2:あれも外の人からみたらまったくわからない話だよね。

*3:わたしはもちおがIT畑にいたときにそれ関連の調べものをするためによくはてなに来ていたので、それではてなダイアリーを借りました。幸か不幸かはてな村の揉め事についてはまったく知らなかった。

*4:ならなくていいしな。

*5:それでお互い励ましあってコメントつけてるのを互助会、互助会いわれてるけど、それは古参同士の馴れ合いコメントでもあることだと思ってみてきたよ。この人がコメントしたからあの人もいっちょかみしてくるな、とか。そうやってローカルな揉め事はブクマを伸ばしてきたんじゃないでしょうか。それだってそれに関心ない人からみたらうんざりコンテンツだよね。

*6:東京と違って地方は時間と曜日が選べたり単発で出来たりする仕事は本当に少ない。あっても時給は驚くほど安い。つまり若くて体力と学歴とコネがあって継続的に働ける人以外は苦戦を強いられる。

*7:古きよき村に新参が移住してきて「ここなら稼げるよ!」って宣伝してるのを見る感じなのかな。・・・あれ? この感じ、どこかで・・・。

夫婦喧嘩をしたときに思い出す言葉

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*1

昨日ひさしぶりに派手な喧嘩をしたので、そういうときいつも思い出す継母の言葉を書く。

 

わたしの両親の喧嘩は派手だった。モラハラDV酒乱と三冠王な父と、支配的操作的考えなしの母の間には、喧嘩の種がつきなかった。しかも二人は若かった。喧嘩がはじまると父の怒声と母の金切り声をベースにさまざまな破壊音が続く。ガラスが割れ、陶器が砕け、壁やドアに穴が開く。身体が壁や床にぶつかる音、そして弟、妹の泣き声。美丈夫の父と美女の母の喧嘩には微笑ましいところが少しもなく、ただただ悲惨で恐ろしかった。

 

こうした喧嘩のあと母は実家へ泣きながら長電話をかけるのだけれど、問答無用で実家へ帰ってしまうこともよくあった。母はわたしの洋服ダンスの奥に家出道具一式とへそくりをしまっており、学校から帰って母がいないときは箪笥の奥を見た。家出グッズがなくなっているときは母は飛行機の距離にある実家へいってしまっている。学校へ迎えにきてそのままわたしたちも母方の祖父母の家へ連れていかれることもあった。それで転校したこともある。「お袋が実家へ帰るのは年中行事やった」と後に弟はいった。

 

こういう家で育つと子供たちは「自分はぜったい喧嘩をしない夫婦になる」と固く決意する。しかし仲良く暮らすために必要なのは「喧嘩をしない」技術ではなく「仲直りをする」技術だ。これはどこから学べばいいのか。

 

わたしは家を出てからキリスト教に帰依するなどして、かなり温和な性質を身につけたつもりだった。右の頬を打たれたら左の頬を差し出す。平和を愛するものの間に主はおられるのです。結婚してすぐにわかったことは、これらを友人、知人に対して実践することは、家族に対して実践するよりずっとたやすいということだった。かくしてわたしは親譲りの喧嘩上等な妻になった。ショックだった。

 

しかしそんなとき思い出すのは両親ではなく、父が三回目の結婚で娶った継母のことだ。継母と出会っていなかったら、わたしはいまもちおと一緒に暮らしているかどうかわからない。

 

三人目の妻 

継母は中学生のころ父に出会った。当時継母の両親が経営していた新宿の飲み屋に大学生の父がよく飲みにきていたのだそうだ。
「宿題をしていると『教えてやろうか』っていうから、『教えていらない。やって』っていってやってもらったわよ」
と継母はいう。継母はちゃきちゃき、てきぱき、竹を割ったような少女だった。いまもそうだ。

 

父が二度目の結婚をしたころ、わたしは継母が親から継いだ店で彼女に会った。彼女はわたしの父を「あんないい男はいない」と絶賛した。
「あんたたちはまだ子供だからわからないのよ」

「そうでしょうか」

「そうよ!」

「いやー・・・一緒に暮らしたら考え変わると思うな」

「そんなこと、ない!」
果たして父は二度目の離婚後に彼女と結婚した。

 

当初わたしは今度の結婚は何年持つだろうかと考えていた。わたしだけでなくみながそう思っていた。父の三冠王と浮気性がなおるとは思えない。しかし継母はさまざまな問題に気丈に立ち向かい、妻の座を誰にも明け渡さなかった。

「あの人を嫌いになったらすぐに出て行くわよ。でもね、まわりがいろいろ言ったり、会社が上手くいかなかったり、そんなことで別れたりするもんですか」
「ここで逃げたら女が廃るってもんよ」
あんな人とまともに暮らせる人がいるのか。そんなことってあるだろうか。父は、変わったのだろうか。

 

言い争い→喧嘩→予想外

そうではなかった。父はわたしが帰省する短い間にもちょっとしたことで継母と大喧嘩をはじめることがあった。

父を車に待たせてケーキを買って戻る。ほんの10分足らずで車に戻ると父がブチ切れている。
「おまえら俺を待たせて店でなに話しているんだ」
「なにも話していないわよ。リボンをかけますか、っていわれたからいいです、っていっていたの」
「いいや、おまえたちは長話をしていた!」
父の猜疑心と怒りは狂信的だった。いま思えばアルコールが切れてイラついていたのだと思う。わたしは恐怖といたたまれなさにすくみあがって黙る。緊迫した車内で重い沈黙とともに家に帰り着く。とてもケーキを食べるどころではない。こういうことはむかしからよくあった。実母は起きた出来事をひきずるタイプで、怒りの矛先は娘に向かうこともあった。

 

しかし継母は荒々しくドアを閉めて出て行く父を尻目に「まったくカッカしちゃって馬鹿みたい」と肩をすくめ、「ケーキ、食べましょう」といそいそ紅茶をいれるような人だった。そしてひとまわりして何食わぬ顔で帰ってきた父に「おかえりなさい。あなたもケーキ食べる?」と明るく声をかけた。

「うん・・・ちょっと頭が痛くてな」

「へー。カッカしすぎなんじゃない?」

紅茶をそそぎながら絶妙なタイミングでちくりと小言をいうことも忘れない。次の瞬間にはなにごともなかったようにケーキをつついている。一枚上手だ。

 

そうして何度か継母と父が言い争いをはじめるのを見た。継母も黙ってはいない。二人の声がボリュームアップしはじめると次は破壊音がくるぞ、と身構える。いやだな。帰ってこなければよかった。しかし予想に反してしばらくすると階下からは笑い声が聞こえてくるのだった。二人はうやむやに和解して、キャッキャウフフといちゃついているらしかった。

 

弟は最後まで親元におり、言い争う二人の間に割って入ったこともあったと継母に聞いた。
「『どきなさい』っていったの。『この人があたしに指一本でもふれることがあったら、あたしは実家へ帰る』って」
「『これは意見の調整なの。夫婦には意見を調整しなくちゃいけないときがあるの』って、あたしそういったのよ」

 

父は継母めがけてグラスを投げたこともあった。
「ちゃんと外してるのよ。あたしに当たらないように。やさしいの。それなのにバカみたい」
と継母はいった。「あの人のなかに鬼がいるのよ。それがときどきどうしようもなく暴れるの」

 

個人的マントラ

これは父が懐深い妻によって改心したという話ではない。継母は一途に夫を信じる純真な妻というわけでもなく、海千山千蛇の道は蛇という空恐ろしい面をもった女性でもある。
それでもわたしはこの二人の姿を見て、「夫婦は喧嘩をしてもいいんだ」と思うようになった。喧嘩のたびに何かがどんどんダメになるというわけじゃないんだ、人間関係は修復可能なのだと知った。これは意見の調整なの。夫婦には意見の調整が必要なの。

 

そのようなわけでわたしは今日もちおと和解した。これからも喧嘩をすると思う。スマートに意見の調整が出来るとは限らない。でも夫婦でいる間、継母のあの言葉を思い出して、絶望しないでいようと思う。


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*1:喧嘩の原因はこれじゃないです。

Happy Birthday to Me

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今日くらいオフラインに集中しようと思います。

 

前日かならず休みなのが11月4日のいいところ。去年はJUNKU堂でアライバルを買ってもらった。今年はショールームを見にいって、バストイレ洗面所キッチンをリフォームしたらいくらかかるかを計算していた。じっと手を見ちゃったね。

 

働こう。

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うしじまいい肉 「自撮りの教科書」で知る己の自意識過剰ぶり

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今回はうしじまいい肉さんの本を読んで、「自撮りする人よりしない人の方が自意識過剰でこじれているのかもしれない」と思ったというお話です。

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コスプレイヤーうしじまいい肉さんが読者の悩みに快刀乱麻の勢いで答えていく「うしじまいい肉にっこり人生相談」がとても面白いので、うしじまさんの本を買った。

ch.nicovideo.jp

この番組は株式会社タチワニが提供している。つまりうしじまさんのバックには岡田斗司夫がいる。しかし藤沢数希との一騎打ちをはじめQ&Aが面白いので、もはや課金は時間の問題というところまで来た。悔しい。ちなみに岡田斗司夫の「悩みのるつぼkindleで二冊持っている。しかもよく読み返す。読みやすくて意外性のある文章のお手本みたいな本だ。悔しい。

 

本当はうしじまさんの悩み相談のアンサーまとめがほしい。でも「自撮りの教科書」も「生き方やネット問題の対処法も学べる」とTwitterで評判なので買った。

 

ポージングから炎上対策まで

自撮りの教科書 (学校ではゼッタイ教えてくれない教科書シリーズ)」は最初にうしじまさんのお手本グラビアがあり、次にモデルのまきろん。ちゃんによるポージングとうしじまさんの解説が続く。 

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ポーズは立つ、座る、背面(振り向き)など数パターンあり、それぞれのアレンジのコツが解説されている。「自撮り」なので何もかも自分でやらなければならない。フレームにどこをいれてどこを切るか、メッセージとして何を強調したいのかを考えて撮影すること、またライティングのコツや小道具の使い方の解説もある。

 

ポージング解説の次は漫画とあわせた自撮りの考え方、注意点が続く。

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Twitterならフォロワーに注目してもらえる時間帯に投稿すること、日常を撮影するなら拡散されてこまるような個人情報のヒントが写っていないか注意すること、また交際相手のリクエストに応えてセクシーポーズを送るなら別れた後のことも考えておくべきといった警告もある。

 

最後はまきろん。ちゃんによる実践グラビア。これはまだソフトな方。

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うしじまさんといえば挑発的なセクシーポーズが有名だけれど、そういったポーズを撮るときの表情は困り顔や伏目がちにするなど嗜虐心をそそるものの方がインパクトがあるとのこと。アメリカのAVみたいなお誘いムードじゃあかんのやろな。

 

ちなみにうしじまさんが撮りたいのは主に衣装なのだそう。だからうしじまさん自身の表情より衣装に注目してほしくてクールにしてるんだって。被写体として自分にフォーカスしたいときは表情の作り方や角度は大切ですよ、ということであった。なるほどー。

 

自撮りの心得

そしてエッセイ部分。

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前書きとあわせてもとても短い。*1でもここを読んで予想外に「うむむー」とうなってしまった。

 

うしじまさんが繰り返し強調しているのは、「自分をすきだというのはいたって健全な気持ちであり、自虐よりずっといい。そして自分を撮るなら写りのいい写真を撮りたいと思うのは当たり前で、そのための研究を重ねることは誰に迷惑をかけることでもない」ということ。つまり自撮りをすることを後ろめたく思って変に遠慮したり、隠れてこそこそやらなければならないことではないということ。*2

 

かわいい自分、セクシーでエロい自分、きれいな自分をすきだと思うのは当たり前。それを喜んでくれる人たちと交流が広がるのは楽しい。ぜひじゃんじゃんやったらよろしいと。それを叩く人は一定数いるけれど、「不快に思う人がいたから謝る」ではなく、悪いことをしていないのなら相手に受け入れられようと苦心することはないと。

 

「そうだ、その通りだ」と思う。でもそう思えば思うほど、自分の中に「自撮りが見苦しくないのは若くてスタイルがよくて際立って容姿のいい女性だけ」という気持ちがどれほど根深いものかを思い知らされる。この本を買ってすぐに前書きとエッセイだけを読んで、ほかはおまけのつもりで読んでいたけれど、要するにそれは「自分は分をわきまえておりますので」という気持ちのあらわれでもあったのだった。誰も見ていないのに。

でもこれ言うほどやさしくない。なぜならまわりに批判されるより前に自意識に悩まされるからだ。

 

自撮りの壁

わたしは仕事で自撮りが必要な場面がけっこうある。動画も作る。ブログでもfacebookでも顔が写っているとお客さんは安心するようで、顔が写っている画像にはいいね!もたくさんもらえる。

ヨッピーの記事とか地主恵亮さんの記事もそうじゃないですか。取材中に自撮りが入ると「この人、こんなところでこんなことをしてるよ」という臨場感があるし、親しみも覚えやすい。出来不出来によらず顔が写っているエントリーは反響がある。シェアが広がれば仕事に繋がりやすい。

 

人の印象はときとともに変わる。ライターのかさこさんはお客さんと会ったとき違和感がないように、プロフィール画像にはふだんの姿を使うこと、まめに撮影して差し替えることが大切だと書いている。

でもこれがねえ。ひとりでカメラの前でポーズ撮ってると無性に恥ずかしくなるじゃないですか。なりませんか。でも必要じゃんと思って練習するけど、特に人前で撮るのが本当に恥ずかしい。

 

あと仕事中に写真撮らせてくださいといわれることがある。これもできればカメラに向かってポーズしたり表情を作ったりしたほうがもちろんいい。でも「うわ!この人なにモデル気取りでいるの?」と思われたらどうしようと思うあまり、直立不動で唇を真一文字にしてしまうことがしばしばある。よくない。*3人からどう思われるかを気にするあまり身動きがとれないというのはあきらかに自意識過剰だ。他人は一時間もすれば忘れちゃうことなのに。

 

ふだん写真の提供をもとめられるときは宣材写真としてプロにひととおりやってもらったものを提出している。イメージを伝えてメイクしてもらって、目線はもちろん肩から腕から指先まで指示を出されて撮影する。でもこれはぜんぜん自然じゃない。「わあ、いいね!まるで~みたい」な写真って、つまり自分であって自分でない。赤の他人か、顔見知り程度の人の評判はいいけれど、身近な友人やもちおは「誰これ」っていう。人柄が写ってない写真なんだよね。

 

うしじまさんはときどきツイキャスを配信している。動いて喋っているうしじまさんと自撮りに出てくるうしじまさんの間にはあまりギャップがない。もちろん動画はずっとリラックスしたポーズでてれっと写っているけれど、うしじまさんの人柄がどちらにもよく出ている。

 

わたしもそういう画像を使いたい。いいカメラマンを探すのもいいけど、まずふだんの姿を自分で撮ることに慣れることだな。自分の声を録音して聞くとさいしょ「うわあああ!」ってなる、あの感じを乗り越えて、とにかく自撮りする自分とされる自分に慣れていくのがえかろうと思った。*4

 

と、いつのまにか「わたしも自撮りがんばろう・・・!」と思わされる一冊でした。老若男女を問わず自撮りは自意識を見つめるのにいいと思った。部屋の散らかり具合も客観視できるしね。

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*1:本自体も薄くてあっさりしている。必要なところを開けば見開きを一目で見て、知りたいことがわかるような構成になっている。

*2:もちろん公共の場でまわりの迷惑かえりみず露出するようなことは避けなければいけませんよ。その辺の注意もある。

*3:これまでの人生でカメラにむかってピースサイン出したことが一度もない。

*4:中国やベトナムの女の子たちってその辺抵抗がないみたいで、ふつうの子たちもポーズや表情の作り方が上手な子が多い。パッとすてきなポーズをとってニコッと笑う。

痴漢被害者を羨ましがる人たち

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性暴力被害告白を本気で自慢だと思っている人と話をしたときのことを書きます。

 

少し前に性風俗業の話を書いたときのこと。ブログを読んだ知人と話をした。
セックスワーカーの話なんか荒れるに決まってるよ。ああいう話を読むと見下されているって感じる男は大勢いるんだよ」
「どうして?」
「だってああいう仕事に就いてる子って明らかに童貞より性経験が豊富じゃん。金だってもってるだろうし、ぜったい非モテや童貞を馬鹿にしてるよ。だから自分を守るために攻撃せざるをえないんだよ。見下される前に見下し返すっていうこと」
「え?は?『童貞乙』っていわれてる気がするってこと?」
「・・・それ、リアルで言わないほうがいいいよ」
「言わないよ。言う場面もないし。ていうかそんなの気にしてるの一部の人だけじゃない?」
「童貞は馬鹿にされるんだよ」
「どうして?」
「ある程度の年齢になっても童貞だってことは誰からも求められなかったっていうことだからだよ」
「非童貞だからって女性に求められたとは限らないよ。レイプで脱童貞した人だっているんじゃないの。性体験が豊富でも人間性が最悪な人だっているでしょ?」
「それでもそいつには行動力があったってことじゃん・・・」

ええええええ!

「レイプ加害者でも童貞よりましだっていうの?!」
「いや、レイプはいけないけど、でも童貞はそれすら出来ないんだよ」
「待って待って。性体験の有無で人間性ははかれないでしょう?処女、非処女みたいに分ける人いるけど、あれもおかしいでしょ。望んで性関係を持ったとは限らないじゃない」
「でもそれも求められたことには違いないじゃん。レイプはいけないけど、童貞よりましだよ」

ええええええええええええ!

 

ってなわけで、例のブクマしたら負けなあの人も、炎上目的というより存外本気でああ思っているんじゃないのかなというのがわたしの見解。*1
Twitterでそういうことをいってくるフェミ憎しの人って珍しくないしさ。

 

妊婦はセックスしたことがあると見せ付けている忌々しい女。
レズビアンはおまえなんかいらないと宣戦布告してくる忌々しい女。
風俗嬢は金払われるだけの価値があると吹聴している忌々しい女。

 

そんな童貞非モテを見下すような女は叩かれて当たり前。童貞非モテの悲しみを思い知れ。こういう理屈で動いている人は本当にいる。本人は自分を加害者じゃなく被害者だと思っている。自分は変態にすら求められない人間なんだと。いいじゃないですか、あなたは幸せですよ、みたいな。*2*3

 

痴漢にあったことのある男性にも何人か会ったことがあるけれど、常習的に毎朝みたいなのはない。もしかしたらいるのかもしれないけれど、こういう風潮じゃある意味女性以上に語りづらいだろうし、セカンドレイプも酷いだろうと思う。

女をモノにして一人前っていう思想、早くなくなんないかな。*4女は童貞より性犯罪者と性犯罪すら名誉に思う人を嫌っているってことに気がついてほしいよ。*5

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*1:例の人はどうか知らないけれど、少なくともこの話をしてくれた人はビタいちわたしを挑発する気がなかった。ただただ自分を恥じている様子だった。

*2:だからこれは「男性の性を受け入れろ」というより、「なんであれ性関係の輪に入っている人間は贅沢だ、自分は輪から外されている不幸な人間だから気遣え」という訴えなのだろうな。

*3:「育児する余裕がある人間は社会的強者だ、持たざる者である子供のいない人間を気遣え」と同じ理屈。

*4:健康な男なら風俗へいくのが当たり前という考え方もね。社会人として男同士の話題についていくため彼女がいるのに風俗へいって死にたくなった話

*5:これを書いたときも「童貞は恥だ、度胸がないから童貞なのだ」とたいへんな上から目線で長文を書き送ってきた自称非童貞男性がいた。わたしが目にしたところでは童貞を見下しているのは男性だ。

「夜の性活相談所」を読んでセックスは話術に似ていると思った話

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こないだセックスってどうやってするのを書いたとき、性教育の授業や茶の間のテレビのキスシーンに「ぎゃーーー!」っていうような反応が各所であった。今回はもっとセックスの話だからぎゃーーー!ってなる人はここでブラウザを閉じるとよいでしょう。心の準備はいいですか。

 

小室友里先生の本が売れている

「恥をかかされたから次はない」という女は存在する で引用した本が売れている。

 この二冊が合わせて50冊近く売れた。

  

新たに買った2冊。

 

セックスと話術の共通点

 

話すことに飽きることとセックスに飽きること

 

コミュ障と性的コンプレックスの類似点

 永田カビさんのエッセイ

【コミックエッセイ】「女が女とあれこれできるお店へ行った話 ①」漫画/永田カビ [pixiv]

 

セックスは内緒話

自分だけでなく相手のプライバシーにも関わることをやたらに話すのはNG。でもだからこそ聞きたがる人は多い。それが内緒話というものよね。

 

女性向けAVへの反発

 

 今日もこれから忙しいのでTwitterを貼るだけ更新にしました。男性編、女性編あわせて読んだんだけど、「こんな悩みを持つ人がいるのか!」と「こんな作法があるのか!」と何度もびっくりさせられた。世界は広いな。そして人は同じなんだな。いつかまたどこが面白かったか書きたい。

 

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夫が図書館で住民税の元をとっていた話

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今回はもちおが図書館に毎月新しい本をリクエストして住民税を上回る利益をえていた話です。

 

ヒトデさんが図書館に目覚めたそうですね。

hitode99.hatenablog.com

図書館にない本をリクエストすると買ってもらえるということをヒトデさんはご存知でしょうか。以前住んでいた町の図書館は、リクエストさえあればたいていの本は買う、という姿勢で運営されていた。「リクエストに応じて購入したBL本が増えすぎだ」という批判が上がったことがあったが、図書館側は「市民の声に応じるのが図書館の仕事だ」と応酬し、一歩も退かなかった。

 

当時IT畑で働いていたもちおはこの恩恵を仕事に大いに利用した。IT関連の技術書は分厚く高価なものが多い。もちおは特にオライリーの技術書のファンで、毎月オライリーから出る新刊本を何冊もリクエストしては買ってもらっていた。「月平均3冊は買ってもらった。俺が頼んだ本だけで100冊以上はある」ともちおは言う。こんなのとてもじゃないけど本棚に収まらない。オライリーの技術書はざっくり平均3442円という数字が出ている。金額だってかなりのものだ。あの町に8年いたから、年12万として86万円ほどだろうか。「住民税のもとは取った」「あの町のIT技術書コーナーはワシが育てた」ともちおは語る。

 

それだけではない。もちおはこうして最新技術に通じつつ、各種資格の参考書も発注をかけていた。そして電車通勤の時間を利用して参考書と技術書を読み込んで、さまざまな資格を取得した。

 

あらかじめ参考書の傾向を図書館で調べ、ひとつの資格につき実際に自分で購入するのは1冊程度。あとは図書館とwebで手に入る過去問を利用して、もちおは次々資格をとった。転職して、資格取得に報奨金が出るようになってからは報奨金ハンターとなり、さらにせっせと勉学に励んだ。*1報奨金を手にする喜びは給料を受け取るのとはまた違うものらしい。手にした報奨金でロードバイクを買ったもちおはとても誇らしげだった。

 もちおが取得した資格は以下の通り。

 

図書館とネットは大いに活用すべきだとわたしも思う。わたしはいまの仕事を始めるにあたってやはり図書館を利用した。高価な本、分厚い本、知っておきたいけれど買うまででもない本、みんな図書館に頼った。図書館だと買って安心して読まずに積読がすすむということもないからね。期限までに読み込まなければというプレッシャーがまたいい。買ってしまうと内容が頭に入るまえから手に入ったような気になって安心しちゃうんだよね。

 

でも最近は以前ほど図書館を利用していない。当時の住まいは図書館に近いということで選んだのだけれど、いまの住まいは図書館から少し遠い。そして近隣の図書館が持つ空気がなんとなく合わない。図書館って、個々に独特の個性があるよね。

 

もちおは車通勤になってから移動中の読書が出来なくなったのが痛い。当時は過酷な満員電車の殺伐とした空気の中で読書に打ち込んでいたけれど、それでも行き帰りでかなり読めたみたい。電車通学、電車通勤のみなさん、図書館と移動時間は金の鉱脈ですよ。掘って、掘って!

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自分の弱さを盾に取る人 スーザン・フォワード 「となりの脅迫者」

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「みやきち日記」のid:miyakichiさんがありがちな性犯罪者の自称「性暴力について考えるうえで大事な資料」なる犯罪手記を読んで思ったことで紹介していたスーザン・フォワードの「となりの脅迫者」のサンプルをkindleで読んでいる。

 

 

スーザン・フォワードは「毒になる親」で一世を風靡し、いまでは原著を知らない人も毒親という言葉を使うほどだ。「となりの脅迫者」は人に罪悪感や義務感を抱かせて自分の思い通りに操作しようとする人々が使う心理的なテクニックを分析し、その対処法を教える本。

 

日常的な脅迫

かつてわたしはこのようなかけひきにとても弱かった。もうやすやすとそれに引っかかって、というより、自分からすすんでそれに飛び込んでいくこともあった。わたしは被害者、犠牲者を自称する人、また「自分はある種の病的な状態から立ち直ろうと奮闘しているサバイバーである」と称する人にはなんでもしてあげるべきだと考えていたからだ。

 

また「親に従順であれ」「孤児ややもめに親切であることこそ信仰の証」という聖書の言葉を絶対視するあまり、身内の要求を蹴ることは信仰の否認になると考えていた。それで心からそうしたいと思うこと以上の要求を呑もうとして、両親や一人親だった妹の言動にふりまわされていた。

 

この本にはさまざまな手段で人に脅しをかける方法が書かれている。仕事を奪う、離婚する、相続権を絶つといった力に訴える方法もあるが、「自分を罰する人」として書かれているタイプは自分の弱い立場を利用して人を操作しようとする。「こんなにひどい境遇にいる自分をさらにひどい状態へ追い込むなんておまえは残酷だ」という種類の脅迫(ブラックメール)だ。

 そんな彼らがブラックメールという手段に頼ると、自分を取り巻く困難のすべて(現実のものであれ、想像上のものであれ)を相手のせいにすることで、自分の要求を正当化する。それどころか、彼らは、相手が彼らの身に起きたことに責任を感じるように仕向けるという、信じられない才能を持っている。

 「罰する人」の脅しの対象にされた人は、たとえ大人であっても、子どものような反応をしがちだが、「自分を罰する人」の脅しの対象にされた人は、彼らに大人の役割を押しつけられるはめになる。この場合、対象にされた人こそが、その人間関係のなかの唯一の大人なのだ。 

わたしはこのタイプに心覚えがある。個人的には権威を嵩にきるタイプより、こちらの方がタチが悪いと思っている。

 

「弱者」への批判を封じる脅迫

みやきちさんが言及してくれた男子の性衝動をカルマか何かように特別視する風潮を書いたとき、そういう人が何人もあらわれた。

 

批判が正しいかどうかに関係なく、「おまえは強者」「彼は弱者」を前提に話をすすめ、「強者による弱者いじめだ、ナチだ」と騒ぐ人。*1イミが傷つき、立場が不利になるとすれば「回復が遅れる」「彼は批判を受け止められるほど強くない」と言い募る人、イミがブログとTwitterを非公開にしたことに「責任を感じるべきだ」と繰り返しブクマやブログ、Twitterで非難してきた人もいた。

 

また屋上娘は「自分は人の話を聞く資格もない無知で無力な被害者でしょうか」と書いた。裏を返せば「もし話を聞く相手として不適切だというなら、それは自分に差別的なレッテルを貼っている証拠だ」ということだ。これは非常に巧妙でいやらしい脅しだ。*2*3

 

「性暴力加害者の告白に圧力をかける行為は性犯罪を増やす」と仄めかしてあからさまに脅迫してきた自称「性暴力被害者支援活動」をしている@haru0721もいた。彼はまた屋上娘のうかつさを指摘したことを「性暴力被害者へのレッテル貼りだ、サバイバーを見下している」と大騒ぎをした。*4ここでもまた「おまえは弱者を配慮しない無神経な強者だ」という脅迫がみられる。

 

これらに共通してみられることは、「繊細な弱者様にご満足いただける批判でない限り、どんな批判も非難も控えるべきだ」という主張だ。さもなければ弱者は自傷自罰行為に陥るかもしれない。弱者の命をなんだと思っているんだ。しかしこのような態度は実際には「弱者」をさらに大きな問題へ追い込む。

 

弱者のご紋の弊害

わたしは自称弱者が他者を強者の立場において自分を配慮させようとするいやらしさに心底うんざりしている。自分は弱いから他者への加害を自制できない。弱いから批判に耐えられない。だから加害行為を非難せず大目に見ろ、大目に見ないならそれはおまえが酷い人間だという証拠だ、それを指摘してなお取り下げないならこちらは全面攻撃の用意がある、まずはおまえのせいでこちらがどれだけ傷ついたか、破壊的な行為で証明してやろう。*5

 

こういう人は「弱者」の立場から抜け出せない。それが自分のアイデンティティであり、免罪符になっているので、それなしに自分を人と違う人間だと区別できるもの、自分の行為を受容してもらえる根拠になるものがないからだ。*6

 

そういった主張をする人が実際に残酷な過去や苦悩を経験していないということではない。けれどもそれが自分の売りになってしまうと、その人は他者と対等で親密な関係を築く方向へ成長するのが難しくなる。他者に対してある種の生ける感動ポルノとして自分を売り込んでいくほかないからだ。

 

わたしが他人の世話に奔走していたころ、熱心に電話をくれた人たちはいつも刺激的でぎょっとするような話題ばかり持ってきた。自傷行為、加害行為、衝撃的な人間関係、経済的困窮、異常な性行為、刃物や薬が飛び交う世界だ。最近読んだおもしろい本や、つまらない映画の話なんかはしない。彼らは生ける感動ポルノのコンテンツとしての自分をわたしに売っているのであって、ただの人間同士の平凡な友情で親しくなる道はそこになかった。

 

弱者ファンをやめてから

わたしは長い間あるクリニックへ通ってカウンセリングを受けたが、その過程で徐々に人を見る目が変わってきた。そして親兄弟の問題は彼らに責任をとらせたほうがいいし、わたしの人生は彼らのリソースではないということが少しずつ肌身でわかってきた。同時に熱心に連絡をくれる「サバイバー」たちの話を冷静に聞けるようにもなり、そこに見られる矛盾に疑問も覚えるようになった。わたしは勝手に彼らを弁護し、彼らに都合のいいように物事を解釈するのをやめた。

 

親兄弟は少しずつそのことを理解するようになり、関係がかわった。当時の知り合いはいまでは一人も電話をよこさない。「友達」といえる人は前よりもずっと少ない。でもわたしを脅迫するような人はそばにいない。そういう人に出会うことはあるけれど、話に乗らないので関係が深くならない。それでもつかまってしまうことはあるけれど、以前のように「必要とされた」「役に立ってうれしい」とは感じない。困ったな、と思う。

 

いまも立場が弱い人がいるなら力になりたいと思う。それはわたしが大人で強いからじゃなくて、わたしも弱いながらにがんばっているからだ。わたしをそんな風に、自分と同じ弱いけどがんばってる人として見てくれる人とは仲良くなりたい。お互いがんばろう!と思う。

でもわたしを強くて余裕のある人とみて自分をケアしてほしい、と思っている人とは友達にはなれない。わたしもそんな風に誰かを神様、大人様に仕立ててすがらないようにしようと思う。さしあたってもちおとかね。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:「彼は年下の学生であなたは年上の主婦だから弱者、強者の関係だ」といってきた人もいた。議論をするうえで就職活動中の成人した大学生と比べて主婦が社会的強者であるといえる根拠はない。

*2:こういう巧妙な脅しをかけてくる人間は日ごろからある種の犠牲者特権をふりかざす癖がついていることが多い。

*3:それに対する返信はこれ。屋上で話を聞いた女の子へ

*4:ブログとTwitterでレッテル貼りをしているのは@haru0721だと指摘したのち数日沈黙してから、何事もなかったようにTweetを再開している。彼のタイムラインだけを見ていた彼のフォロワーがいたらわたしの主張とはまったく違うものを信じていることだろう。

*5:弱者男性論争や表現規制でもこういう話は出た。

*6:実際にはスポットライトの当たらないような平凡な日常にも人の個性はあらわれるし、人の尊厳は何かを大目に見てもらうこととは関係なく誰にでも平等になる。

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