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今回は「言葉で伝えなくてもサインを送りあえばOK」というモテ作法を個人のローカルルールではなく社会標準と考えることの弊害について書きます。これは「男は空気よめ」「女はサインを明確にしろ」と言う話ではなく、コミットしたい相手と意思疎通をはかるならモテ作法にこだわらないほうが有利だという話。
モテ作法のメリット
ここでいうモテ作法とはいわゆる恋愛本やナンパ塾、恋愛工学など異性にモテるためのアドバイスとして推奨されているもののこと。ばらつきはあるけれど共通点がいくつかある。
- 意思疎通より場の雰囲気をよくすることを重視する
- 好感を得られそうなことだけ自己開示する
- メリットのない相手には極力関わらない*1
- 男性はイニシアチブを取るもの、女性は隙を見せてアプローチを受け入れるもの
モテ指南の目的は相手の気分をよくし、自分に好感をもってもらうことだ。これは恋愛に限らず場の雰囲気をよくしたいときに役立つ。そのための役割分担もはっきりしている。「モテは非コミュなんじゃないかと思う」と書いてきたけれど、モテ指南はコミュニケーションが苦手な人のプレッシャーを軽減する。非コミュ自認が強い人はモテメソッドを素直に受け入れ、勤勉に学ぶので覚えが早い。そしてモテ指南は具体的で実用的なアドバイスが多い。
恋愛工学徒であるid:hideyoshi1537ことヒデヨシさんは「マニュアルは不安な心を救う」と書いていた。*2高級レストランへいくまえにテーブルマナーを学ぶように男女の作法を学べば不安が軽くなる。*3モテ指南は元来恋愛や人間関係に悩む人に有効なのだと思う。それは不安を軽減し、人に対する苦手意識をなくす一定の効果がある。
モテ作法のデメリット
こうした作法は世代や地域によって差があり、それらは各々が属するコミュニティで共有される。モテ作法はコミュニティ内の言語のようなものだ。言語には語彙が少なく覚えやすいものと、地域色が濃厚で外の人間には意味がわからないものがある。
古代バビロニア人が天まで届く塔を建てようとしたとき、神は彼らの言語を混乱させた。人々は共同で作業することができなくなり、言語ごとにわかれて各地に散らばった。モテ作法で共有される言語にはこれと同じ問題がある。自分の言語に固執するとそれを共有できるものの間でしかパートナーが見つけられないということだ。
そして特定の言語が少数言語を圧倒するとき、少数言語を話すものは会話すること自体を諦めてしまう。恋愛にコミットしたければモテ社会の言語を学ぶところからはじめなければならないとモテ指南は語る。しかしモテ作法を標準化することには次の三つの問題がある。
1.モテ作法は意思の確認を怠る
モテ作法では会話は場の雰囲気をよくし、自分の好感をあげるために使われる。基本は「なんでも同意する」「聞き手に回る」というもので、発言は会話を盛り上げる程度の相槌でよいとされている。「相手の言い分をまじめに聞く必要はない」「自分に関係ないものと思っていればたいていのことは気にならない」「真実である必要はない」とするものまである。
そして肝心の恋愛感情は非言語を読み取り、発信することで伝えることになっている。面と向かって「セックスがしたい」「結婚してほしい」と伝えるのはムードに欠ける行為、双方の面子を潰す結果になりかねない、ということだ。
しかしこの空気の読みあいが勘違いの元になっているのは間違いない。相手の気持ちをはかる目安がモテ作法になると「男性は気のある女性に奢る」という作法を信じ、「割り勘だったから愛されてない」と思ったり、「女性は肉体関係を望む男性だけを部屋にあげる」と信じ、部屋に招かれて勘違いをしたりする。
先日の記事に関連したエントリーで「あのときのあれはもしかして」「読み違えたか」と過去を悔やむ声がいくつもあった。双方の意思を十分理解した上で決定していたら少なくともその点で後悔はなかったと思う。
親子ほどの年齢差がある異性からとつぜん迫られて困惑するという話をときどき聞く。これも男性であれ、女性であれ、相手に恋愛感情を抱く側が早い段階で意思疎通をはかっていれば誤解せずにすむことだ。*4遠まわしなモテ作法を理解するよう相手に期待するのは現実的ではない。
モテ作法で匂わせるだけで相手に気持ちが伝わっていなければ相手からはこのように見える。岡本太郎は「自分の中に毒を持て」で
これの女性版について「やたらに目線を送ってきたり思わせぶりな態度をとるのに、はっきり近づくと拒絶する。日本の女性は不可解だ。パリは楽だった」というようなことを書いていた。これではアカン。
2.モテ作法はマイノリティやイレギュラーな状況を見落とす
モテ作法は基本的に異性愛者で性関係を意識する男女がどうあるべきかを基準に構成されている。しかしその枠外にいる人々もコミュニケーションを望んでいるのである。
独自のファッション哲学と人生哲学で多くの人々を魅了しているティム・ガンはゲイだ。彼と女性が二人きりになることは双方が肉体関係を望んでいるサインになるだろうか。また彼が男性と二人きりになることは同様のサインになるだろうか。だとしたら彼は男性とも女性とも親密な友情を結ぶことはできないのだろうか。
彼は同性愛者であると同時にアセクシャルでもある。彼は恋愛感情を持つ人に対しても性的な感情を持たないと著書の中で告白している。*5性関係を望む相手とだけ二人きりになるべきならば、彼は誰とも互いに行き来して二人で語り合ったり、ゲームをしたり、酒を飲んだりすることはできない。
「それは例外だ、極端だ」と思う人もいるかもしれない。しかし多数派から見れば特殊といえる状況の中で暮らす人はおそらく多数派が思うより多い。
妹にはトランスセクシャル女性の友人がいる。彼女が戸籍上男性であったときから妹は彼女と親しくつきあっていた。これを「異性と二人きり」にカウントするべきだろうか。また社会的な差別があるとしてもLGBTは多数派が誤解しないように公に性的指向を告白すべきだろうか。*6レズビアンは女性とも男性とも二人ですごすべきではないのだろうか。
また異性愛者であっても異性とただお茶を飲みながら語らいたいときがある。病気で気弱になったり、現実的な助けが必要な場合もある。お茶を飲むのに適当な店がない地域もあれば、そのような場へいく経済力のない人もいる。男女は恋愛抜きで自宅でお茶を飲んだらだめなんか。恋人同士でも今日はハグだけでいいという日だってある。
3.モテ作法は責任を棚上げする
心を殺された私―レイプ・トラウマを克服して
という本がある。
著者の緑河さんはクリスチャンで、結婚関係外の性関係は持たないという信条をもっていた。しかし緑河さんは知り合いの男性にトイレを貸して欲しいと頼まれ、部屋に上げたところでレイプされた。それまで男性にそのようなそぶりをされたことはなかった。*7
緑河さんは男性を部屋に上げた自分が悪いのか、相手が悪いのか、いったいなぜこんなことが起きたのかがわからず悪夢のような日々を過ごす。そして長い間悩んだ末、相手の男性に対して声を上げた。彼は部屋に上げてくれたのはOKのサインだった、関係をもったのは合意の上だったとうそぶく。
こうした犯罪は枚挙に暇がない。
わたしは自衛手段として肉体関係を持つ気がない相手とは密室で二人きりにならないという対策を否定しない。しかしそれを男女の共通認識として逆手にとり、断りづらい状況を作ってあの手この手で部屋におしかけ、乱暴したあげく「部屋にあげた以上合意したも同然、何が起きても自分の責任」と嘯くような人間には断固賛同できない。それを共通認識として採用することは問題があると思う。
実際この種の罪悪感や責任感につけこんでことに及ぶべしとするものもある。「ここまで来たら断るわけにいかない」「受け入れてしまった自分が悪い」と思いながら関係を持たせることは卑劣きわまりない行為だ。*8
「ここまで来たのに」と怒ったり失望したりして相手を怨むくらいなら、早い段階でわかりやすく意思を伝えなかった自分を責めるべきだと思う。*9もちろん「ここまで来て求められないのは女として屈辱」という考えもやめたほうがいい。合意をえていない女性に迫ろうとしない男性にはなんら落ち度がない。わたしは男性であれ、女性であれ望む側が機会を提示するものだと思う。はっきり伝えて断れたら嫌だと思うのはどちらも同じだ。
モテとパートナーシップをわける理由
以上のような理由でわたしはモテ作法はローカルグループの間でのコミュニケーション手段のひとつ、そこでのルールは内々の目安と考えるのが妥当だと思う。通じない可能性は常に頭にいれておいた方がいい。大事なことは確認する。*10*11実際相手が習慣の違う国の人だったらそうするでしょ?
もっといえばわたしにはモテ作法を察知する能力なんかたぶんほとんどない。わたしだけじゃなくモテ地獄の圏外にいるひとたちもそうだと思う。そんなの小泉今日子が「わたしの16才」で歌った紙飛行機に書いた花言葉とか、髪にさした紅いリラの花くらい遠まわしな表現だ。*12貴族が和歌や扇で思いを伝え合ってたやつとか。かっこいいけどわからない。
わたしがパートナーシップとモテをわけて書くのは、こうした作法がわからないことはモテ社会の中では致命的だけれど、人と人とが伴侶になる上ではさほど大きな問題ではないからだ。モテ作法がわからない、空気が読めないことは恋愛や結婚に縁がないということではない。世界は広い。わたしが知ってる仲良し夫婦はだいたいこういうことに疎い人ばっかりだ。
モテ作法で互いを知り合い、上手くいく人もいるだろう。それが向かない人はモテ作法で人と渡り合わないでいい。「恥をかかされた」とか「ここまできて」とか言われることもあるかもしれない。けれども本当にわかりあいたかったら作法を外れたって自分なりに気持ちを伝えることはできる。汲み取れるかどうかは相手の問題だ。
わたしがいいたいのはそういうこと。じゃあどうすればいいと思うかはまた今度書く。
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