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闘病人をがっかりさせるダメながん治療の本と助けになる読み物

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がん治療中の人やその家族に対して、よかれと思って自分が感動したがん治療本や闘病記をすすめる人がいる。*1

 

これらの本の中には健康な人が他人事として読むと「すばらしい本だ!」と思えるけれど、闘病中に読むと大きなショックを受けて生きる気力を著しく損なうものが少なくない。

 

何かしてあげたい一心で自分が感銘を受けた本をすすめたくなる気持ちはわかるが、よく本を選ばないとはなはだ逆効果なので注意が必要だ。

 

ダメながん治療本の展開

書名:希望を持たせる明るいタイトル 
 (例)「がんと上手につきあう本」「名医が教えるがん最新治療」など

 

前書き:悲観的な現状と希望的観測の対比
これまでこんなにたいへんで悲惨でみんなが困っているがんだけれど、この本では成果が上がる有効な治療を紹介する。実際に治った人がいて、大いに期待できる。

 

本文:初期値がMAXで徐々にデクレッシェンドする展開

この治療法で絶望的と診断されたがんが完治した!

余命わずかと診断されたが平均寿命近くまで長生きした!

余命わずかと診断されたが宣告されたよりちょっと長く生きた!

余命わずかと診断されたが宣告されたよりは長く生きて苦しまずに死んだ←

だいたい余命宣告された通りだったが苦しまずに死んだ←

肉体的には苦しんだけれど気持ちは整理できて穏やかに死んだ←

肉体的に苦しんだし最後まで気持ちも乱れていたが死に顔は穏やかだった←

本人は最初から最後まで苦しんだが家族はがんから多くを学んで成長した←

 

結論:死を目前にしてがんから学ぶこともある。中には助かる人もいるので悲観しないで明るく生きよう

 

いかがでしょうか。なぜかがんが他人事のときはこういう本に感銘を受けたりするんだけど、こういう本を闘病中の人間やその家族に渡すことの見当違いさ加減はほかのことに置き換えればすぐにわかる。たとえば一所懸命で受験勉強に励む学生を応援するため勉強法の本を探していたとする。

 

こんな受験対策本は嫌だ

書名「現役予備校講師が教える合格証書を手にいれる勉強法」

 

前書き「現在の教育制度では学力低下を避けるのは不可能。学力の低下は10年前と比べ…世界的に見ても日本の教育の遅れは…しかしこの本ではそんな問題を解決する勉強法が…この方法で絶望的と思われていた大学に合格した人が続出」

 

本文

この勉強法で絶望的と判定された志望校に合格した!

合格率が極めて低いと判定された志望校に合格した!

合格率が低いと判定された志望校とほぼ同じ程度の学校に合格した!

志望校は落ちたけど判定よりいい大学に合格した←

志望校は落ちてだいたい判定通りの大学に進学したが学校生活に満足している←

受験勉強が実らず進学を断念したが気持ちは整理できて穏やかだ←

受験勉強が実らず進学を断念して心身ともに荒れたが時と共に乗り越えた←

受験勉強が実らず進学を断念して心身ともに荒れ、以来社会に背を向けているがニートや引きこもりもライフスタイルの一つだ←

 

結論:不合格にもいいところがある。中には合格する人もいるので絶望的な判定でも悲観しないで前向きに勉強しよう

 

こんな本を、すでに読むべき教科書や参考書に囲まれた受験生に読ませる人は想像力が欠けている。受験勉強をサポートする家族は「落ちる」「すべる」を日常会話に出すことさえ気を使っているのに不合格話のオンパレードを読むようにすすめてどうするのか。

 

「がん」という病名で常識を忘れてしまう人

受験生をつかまえて不合格になった人の話をしたり、手術中の家族を待つ人に手術が失敗した人の話をたりすることが親切なのかどうかは考えたらわかるはずだ。

ところが、こと話ががんとなると、闘病中の人をつかまえて、がんで亡くなった自分の知り合いの話をはじめる人は本当に多い。

がん治療中の人のことを「闘病中の人」ではなく、「死ぬ前段階にいる人」扱いすることが理解をしめすことになるかどうか考えてみてほしい。

 

こういう人は治療の効果をあげるために工夫する人を見て「現実を受け入れられないのだ」と思ったりする。自分の頭の中にある想像上の絶望を現実と混同していながらそれに気がついていない。しかし現実とは悲観主義のことではない。

 

想像上の絶望を悲惨な事例で補完し、それを合理化する考えを持つようにいらぬおせっかいを焼く。こういう行為はシビアな現実と抜き差しならぬ闘いをする人にとって非常にやっかいな雑音で、大いに負担を増す。

 

理想の病人像、看護人像、美しい死

こういう人が押し付けてくるのは治療法だけではない。

 

誰を怨むこともなく清らかな心で死を受け入れた病人や、すべてを投げ打って愛と献身で病人をささえた看護者を美しく描いた話に憧れる人は多い。そういう人は自分の理想のシナリオを現在闘病中の人間やその看護人に押し付けることがある。

 

病人が荒れれば「もっと穏やかに過ごした方がいい」看病人が疲れていれば「もっと肩の力を抜いて」と映画監督よろしくプロデュースしようとする。しかし穏やかに過ごすため、疲れを癒すためのリソースは提供しない。

 

「この本を読んだら役に立つかも、心が楽になるかも」とweb情報や新聞記事、がん対策本をすすめたくなったら自分自身に注意してほしい。それは本当に闘病中の人やその家族が時間と労力を割いて目を通すだけの価値がある情報なのか。それともあなたの焦りや不安を鎮めるための気休めなのか。

 

またあなたは闘病中の人と、またその家族とこれまでどれほどの信頼関係を持ってきたのか。生死にかかわる問題に立ち入れるほどの関係性を持っている人は、それほど多くはないはずだ。

 

闘病人と看護人の助けになる読み物

泉鏡花結核で床に就いていた樋口一葉に、近所の家の猫の困った話を面白おかしく書き送った。そういうほほえましい日常の手紙の一通のほうが、よく知らない人から一方的にすすめられる分厚い闘病美談よりずっとずっと病人を明るい気持ちにさせるものだ。

 

あなたも自分の日常のおもしろい話をブログにでも書きなさいよ。わたしたち日常系のおもしろブログにはずいぶん助けられているわ。

 

↑中学生のときに読んで「さすがだな、泉鏡花…!」って思った。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:闘病人も看護人も限られた時間と体力の中で読み物を選ばなければならにない状況にいる。メモ書き以上の文章を気楽に読める状態ではないのだけれど、URLや署名をがんがん送ってくる人がけっこういる。


お見舞いの心得と禁句リスト

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がん哲学外来の話~殺到した患者と家族が笑顔を取り戻すという本にお見舞いの心得とやっちゃいけないことリストがあって深くうなづいた。

 

 

訪問する時間を伝える

闘病中の人にも看護している人にも予定がある。まいにち仕事もせずのんびりしていると思ったら大間違い。何時に来客という予定に合わせて身繕いをし、薬を飲み、しかるべき運動や睡眠時間を調整するのは健康な時より負担が大きい。とくに病気が重いときは少ないリソースをやりくりして調子のいい時間を作らなければならないこともある。

 

「ちょっと顔を見に行くだけ。横になったままでいいから気にしないで」

とあなたが思っても、相手は寝癖でぼさぼさの髪や髭モジャの顔を見せたくないかもしれない。出来るだけ早く訪問の予定を伝えておくこと。

 

禁句1 「具合はどう?」

風邪を引いて二、三日寝込んでいた人になら「熱は下がった?食欲は?」と聞くのはそれほど悪いことではない。でも慢性病にある人には様態を聞いても特に発展性のある明るい話題ではないと思った方がいい。聞いた側に問題解決のために出来ることが特にないならなおさらだ。

 

「具合はどう?」

「よくないよ」

「そうなんだ。つらいね。早くなおるといいね」

 →終了

 

やりきれない不調を誰かに聞いてほしいと思っている人はいる。当事者がそれを望む場合は話を聞くことが助けになる。けれども礼儀として答えないわけにいかないという理由で自分の具合の悪さを何度も言いたくないと思う人も多い。話しても解決するわけではない問題を話題にしたくはない。

「完治した!検査結果もパーフェクトで奇跡だって驚かれているよ」ということになれば聞かれなくても本人が語ってくれるだろうし、お見舞いされなければならないような状況にもいない。

 

様態が気になるなら漠然とではなく具体的に目的を持ってたずねるとよいでしょう。つまり「お見舞いに果物を持っていきたいけれど、果物は食べられそう?」「半日くらいなら付き添いをかわることが出来るのだけれど、看護をかわってほしい日はある?」とかね。

 

禁句2 「仕事は大丈夫?」

仕事とは勤めのことだけではなく、経済状態や家事についても同様。当事者が今後どうしたらいいかと悩んでいるところに追い打ちをかける結果になりがち。

 

「そんなに仕事を休んで大丈夫なの?」

「入院で家を空けて子供の面倒は誰が見ているの?」

「治療を続けられる貯金はあるの?」

 

こういう質問をするなら大丈夫でなかった場合の経済的な支援や具体的な援助の手立てを考えた上ですること。結婚を望む人に「いつまでも結婚しないで大丈夫なの?」といったり、職探し中の人に「そろそろ就職した方がいいんじゃない?」といったりすることの無意味さを考えるとよいでしょう。*1

 

禁句3 「感動しました」

これが意外に多いらしい。心ならずも難病、奇病をえて人生を(家族を、生き方を、本当の友情を、真実の愛を)見つめなおす機会になったことから「「この病気は自分にとって贈り物だ」と語る人がいる。またそのような話を美談として感動的に描く番組やドラマがある。

 

そのせいかリアルタイムに病をえて苦労している人をドラマの登場人物のように受け止め、「あなたの生き方に感動しました」「夫婦の(家族の、親子の、恋人同士の)絆に感動しました」といってくる人がいる。

 

これは平たく言うと人の苦労を感動ポルノとして扱っているのだけれど、言っている側はそれに気が付いていないので非常にたちが悪い。褒めているのに何が悪いと思っている。「こんなハンディがありながら生きているんですね」といわれることで、とつぜん自分は「健常者」の枠外に押し出されたことを思い知らされる。これは非常にショッキングなことだ。

 

とくによく知らない相手から言われると「お前に何がわかる」と屈辱感と怒りを覚える。自分は(あるいは闘病中の家族は)おまえの安っぽい感動のために命がけの苦労をしているわけじゃないのだ、と思う。しかし悪気がない相手に面と向かって怒りをぶつけることもできない。

 

病気を軽く扱わない

治療のため休暇を申請したところ、上司から「がんくらいで休むな」といわれショックを受けた人の話があった。上司は病気があってもなくてもこれまでと変わりなく接することを示そうとしたのかもしれないが、実際病気になればこれまでと同じようにできないことはある。

 

うちにも発破をかける体で「絶対に死ぬなよ」「次に会う時まで生きてろって言っておいて」「復帰待ってますから早く治して」と命令口調で言ってくる人がいた。こういう言葉は深い関係性と信頼とタイミングがぴったり合ったときにだけ人を元気づけるが、たいていは言っている側が何かしてやった気になるだけで、言われた側は途方に暮れるしかない。

 

お見舞いにふさわしい話題

ではお見舞いにいったら何を話せばいいのか。忘れてはいけないのは闘病中の人はあなたやあなたのまわりの健康な人と同じ感覚を持っているということだ。つまり基本的には健康な友人や恋人との間で盛り上がる話はOK、ドン引きされる話題は避けた方がいい。つまり共通の土台があり、発展性のある話題。

 

たとえば天気の話、季節の移り変わりの話、最近のニュース、映画や本の話、趣味の話、共通の知人や家族の話。

 

でも相手が抱える解決が難しい問題を軽く扱ったり、よく知らないのに指図をしたり、その場の勢いで精神論をぶちかませばうんざりされる。相手の悩みを自分の感動ポルノのコンテンツのように扱えば嫌われる。

 

秀吉さんのパーティートーク指南あたりを参考にしていただきたい。あれはお見舞いにも有効。お見舞いもナンパも合コンもサービス精神が基本だからね。

oreno-yuigon.hatenablog.com

 

kutabirehateko.hateblo.jp

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*1:「いい人・有望な勤め口を紹介するわ」という話が続く場合ならいいよね。

「青春100キロ」とそれを取り巻く人々の「ハンガーゲーム」ぶり

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 引退間近の女優にコンドームなしでファンとセックスすることを持ちかける映画を「ぜひ見るべき」と好意的に絶賛推奨するエントリーを読んで、「これはリアルハンガーゲームだ」と思った。わたしはポルノとアダルト産業に従事する方々を応援している。なのでこのようなその場しのぎの焼き畑農業みたいな状況は是正されるべきだと思う。

 

ハンガーゲームのあらすじ

「ハンガーゲーム」は既得権益を持つ支配者側の市民が、下層階級から無作為に選ばれた子供たちの殺し合いを視聴して楽しむ映画。

「無作為に選ばれた子供たちの殺し合い」ということで、「すわバトル・ロワイヤルのパクリ!」と一時期騒がれた。しかしこの映画は「残酷な殺し合い」以上に、支配階級の偽善の醜悪さ、悪質さ、卑劣さと歪みが皮肉たっぷりに描かれていて、これは現在現実に起きていることでもあると深く考えさせられた。

 

戦地に送り込まれた少女カットニスが彼らの心理を逆手に取り、支配階級の人気と好意を勝ち得るように配慮しながら戦略を練る様子も興味深い。彼女は貧しく何の後ろ盾もない。彼女の命を娯楽として消費する側から、いつどんな理由で命を奪われるかわからない。カットニスはゲームに勝つことと同時に彼らのゲームのルールに則っていらぬ不興を買わないようにすることに心を砕く。

 

あきらかに異常な状態に閉じ込められた子供たちを見ていながら、視聴者は「リアルな若者の生き様」を見ている気分でいる。極限状態に演技の余地はないと考え、戦略のための疑似恋愛にうっとりし、命乞いに涙する。髪の毛一本傷つかない安全な場所から、お気に入りの「プレイヤー」に感情移入したつもりになり、応援している気持ちになり、自分は彼らの味方だとすら考えている。しかし実際にはこの残酷なゲームの場を作って彼らを戦場に送り込んでいるのはこの視聴者なのだ。

 

子作りと性欲

「孕む、孕ませる」は生命の根源的欲求である。有史以来性交の目的はどうあれ、帰結は妊娠であり、出産だった。確実な結果を出す避妊具、避妊薬が開発されてからまだ100年足らずしか経っていない。

 

避妊をせず性関係を持ちたいというのはゴムがないほうが感覚が妨げられなくていいという問題ではない。そうであれば視聴型の孕ませ系エロゲやポルノがこれだけ人気をえるわけはない。問題はゴムの感触ではない。愛する人の子を宿したい、自分の子を宿してほしいという衝動は厳密には肉体的な快感とは別のものだ。*1

 

その衝動は強く抗いがたい。それ自体は健全でなんら恥ずべきものではない。

 

とはいえ妊娠、出産には育児と社会的責任が伴う。孕みたい、孕ませたい。でも育てたくない。避妊具、避妊薬によってこのような葛藤を回避する道が出来た。しかし避妊は有史以来人類が従ってきた「未来を運命にまかせて自然の衝動に従う」というモデルに理性的に抗うものだ。そして理性は往々にして性欲を抑える。性欲を掻き立ててなんぼのポルノ産業が孕ませ系を売りにするのは自然の成り行きだといえる。

 

AVの基本は性的ファンタジーの映像化にある。あなたの子を宿したいという女性に求められ(あるいは死んでも妊娠したくないと抗う女性を組み敷いて)受胎させるというのは自然の欲求に沿ったありふれたファンタジーだ。動物は「どうか妊娠しないでくれ」と考えたりしない。そもそもさかりがつくのは繁殖の時期なのだ。

 

ポルノメディアのハンガーゲームぶり

性的ファンタジーの幅は広い。ロマンチックなものから最低でも終身刑は免れないものまでさまざまだ。日本ではこれらのファンタジーの大半を果敢に拾い上げて作品にしている。需要があれば作るし、売れれば金が入る。これは世界でも特異な文化だと思う。

 

わたしは日本がさらに幅広い需要と性的志向に応えるAV作品やポルノを生み出すことを期待している。そのためにはAVタレントが演じる役柄とAVタレント自身の境界があいまいにされたり、AVタレントの私生活や生身の身体や人生が脅かされるようであったりしてはならない。

 

「誇りを持ったお仕事」「ファンの皆さんに喜んでいただきたくて」「スタッフみんなでがんばって作りました」といった煽り文句で出演者を怪我や病気、性病や妊娠の危険にさらすことがあってはならない。そのような事態を「リアルな作品」「情熱的で魂のこもった作品」として歓迎するのはハンガーゲームの構図だ。

 

著名なはてなブロガーが仕事を辞めるにあたって「愛されたくてブロガーになりました。引退記念に100キロ完走した私のファンとゴムなしでセックスします!」と宣言したらどうだろう。まず大騒ぎになる。はてなホッテントリ入りさせないだろうし、ブログを強制非公開されてもおかしくない。

 

「大丈夫、ピルを服薬しています」「信頼できる人が面接してくれましたし、性病検査も受けたと聞きました」と書いたら安心するか。しないだろう。「走ってるところとセックスは後ほど有料公開します」と書いたら歓迎されるか。大問題になるだろう。さらに問題なのは「赤の他人とゴムなしでセックス」を言い出したのは関係する本人ではなく、それを撮影して有料で公開しようという人間だということだ。「あのはてなブロガーさんに引退記念としてゴムなしセックスを了承してもらいました!孕ませたい人を募集します!」これを「観た方がいいやつです!」と宣伝するだろうか。

 

ところがひとたび「AV」の枠に入ると基準が変わる。ハンガーゲームの世界でバトルフィールドでの殺人が罪に問われず、そこでの死が予期されたものであるように、AVと名がついたとたんに視聴者の感覚は鈍る。そうか、AVか。AVタレントがゴムなしでセックスするのか。それなら大丈夫だろう。精神的にも遺恨が残らず、心理的ダメージも受けないし、肉体的にも安全だ。なにしろAVタレントなんだから。

 

もしかしたら精神的にも心理的にも肉体的にもダメージを受けるかもしれない。100%の避妊はありえないのだから、性病検査も完璧ではないのだから、取り返しのつかないことがおきるかもしれない。でも自己責任だ。AVタレントなんだから。そんなのやる方が悪い。

 

ドキュメント風AVのトリックと異常性

レビューによると「青春100キロ」の映像の大半は男性だけが写っているという。走る男性、それを追う撮影者。尺でいえば主演女優はほとんど出てこない。これはいっけんAVのセオリーから外れているように見える。しかしこれこそがいかにもAVの演出だとわたしは思う。

 

本来の意味での引退記念ドキュメントであれば自分を孕ませたいと喧伝する男性を待つ女優がどう過ごしているのかを見せるはずだ。ピルを受け取りにいくところ。ピルの服用で妊娠の可能性がどのくらいなのかを語る医師。これまで妊娠した経験はあるのか。仮に妊娠した場合、産み育てる考えはあるか。出産、人工中絶費用は契約事項にあるのか。監督や出演者とその点で話し合ったときどう感じたか。契約を断った場合違約金はあるのか。

 

しかしこういった女優サイドの事情が語られることはない。女優のプライバシー問題だからではない。夢が壊れるからだ。AV女優の使命は性的ファンタジーの具現化であって、孕ませ系ファンタジーには妊娠する身体を持った女性と宿った子供の「その後」が現実的に語られることはないからだ。*2

 

AV女優のつぼみが妊婦系AVに出演したときのこと。撮影中膨らんだ腹を特撮で作ったことを仄めかしたブログは「ネタバレになる」と指摘され、すぐに非公開になった。作品にはつぼみが産婦人科母子手帳を取りに行くシーンがあった。つぼみの妊娠を本気にしたファンが、後日握手会に出産祝いを届けにいき、ついにつぼみ自身が「あれは演出です」とブログに書いた。

 

AVタレントはほかのタレントと同じくファンのイメージを壊さないよう配慮しながら発言し、行動している。ファンはそれを半ば仕事と思いつつ、半ば本気にしている。その境界は曖昧だ。けれどもAVタレントが生身の身体と精神、感情を持つ人間であることは確かだ。「孕ませたい」幻想を押し付けるための道具として生身の人間の身体を扱う。その映像を有料でシェアする。あたかも一途で人間味のある青春映画のように演出し、背徳感を排除する。

 

すごくハンガーゲームだ。

 

ハンガーゲームにぜったい出演しないであろう側の人間がこれをやる。そっち側の人間が自分の横に並び、自分の家族や身内になることを想定しないでこれをやる。自分はゲームプレイヤーに好意的で仕事を後押ししてやっている気分でこれをやる。もうほんとにね、「自分を大切にしてください」「人の期待に応える義務はありません」とかって、「自分が人間と思っている人にいいますが」ってことなんだなとげんなりしたよ。

 

「愛されたいと思ってこの仕事をはじめた」っていう上原亜衣ちゃんだけじゃなく、すべてのAVタレントのみなさんが、自分の身体や将来を犠牲にせずに仕事が出来る業界になってほしいよ。そういうメーカーだったらたくさん宣伝もするしセルも買うわ。

 

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*1:ジャングルジムを子宮に見立てて、頂点から地面へ向けて射精していたというスレがあった。うまく地面に届けば着床だと考えて満足していたとのことだった。ジャングルジム相手でも孕ませたいと思うわけですよ。

*2:親子丼とか奴隷化とかその程度ですね。

昭和の女が作るポップアップメッセージカード Amazon段ボール仕様

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中原淳一が「贈り物のマナー」というエッセイに「贈るものと相手を考えて包装せよ」「リボンをかけよ」「メッセージカードを添えよ」「これらの配慮は贈り物が高価、華美であることよりよほどたいせつである」というようなことを書いていた。

たくさんの方にお礼の手紙や近況報告を差し上げたいと思いながらどうにも手が回らないでいる。メアドがわかる方にはメールでご連絡させていただいたけれども、わたしは昭和生まれ、文通育ち、授業中には手紙を回した世代なので、こういうときは紙の手紙を送りたい。でも書くのが遅い。ブログ書くのも数時間かかる。

 

しかし中原淳一の提案を読んで、「そうだ、カード作ろう」と思った。わたしは図画工作好きな子供で、手を動かすことの一環に絵があり、手紙があったのだった。

 

いただいたものに見合うお返し、いただいた方のご年齢にあったお返事を、自分の年齢からして失礼のない、恥ずかしくない文章で…と雑誌「クロワッサン」のムックなど参考に眺めていると、いよいよ筆が進まない。本末転倒である。

 

というわけでカードを作りました。

 

ポップアップカードの作り方

 Amazon段ボールには愛が詰まっている。

 

鳥とAmazon段ボールカード

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画像ではわかりづらいけれど、段ボールの蓋部分にセロテープが貼ってある。

 

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お花ついてるバージョン。

 

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蓋がびりびり破れるタイプの箱。蓋のところに折り目がついている。

 

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わたしは緑の色覚異常があるので、これはみなさんとは違う風に見えていると思う。

 

その他アレンジ

 鹿児島から美味しいものと励ましを送って下さる方に向けて作りました。

 

作っていると楽しい。「書かなければ、出さなければ」という後ろめたさが弱まって、「うれしかったな。ありがとう」「ここにシール貼ってかわいくしよう」「喜んでくれるといいな」と気持ちがこもる。気が付くとわたしが夢中になっている後ろでもちおもプログラム組んだりしていた。

 

四月は終わってしまったけれど、郵便局が開いたら少しずつ送ります。カードじゃないこともあります。どうか気長にお待ちください。そしてご連絡先もお名前も出さずにお見舞いを送って下さった紫の薔薇の人へ。わたしたちの感謝があなたの幸運をまし、危機を乗り越える力になることを祈っています。

 

手紙好きになったきっかけの本

ルイス・キャロルが主に少女をナンパするために生涯にわたって書き続けた手紙を集めた本。*1これら珠玉のエッセイ、ショートストーリーの名作がたったひとりの人へ向けて書かれたのだと思うと手紙の豊かさに圧倒される。「大人になったらわたしもこんな本になるくらい手紙を書くんだ」と思っていた。でもいまはむかし出した手紙の大半は、お願いだからひっそり燃やしてほしいと思う。

 

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*1:わたしが持っているのは初版で、少女のヌードが収録されているので再販はないと思う。小児性愛者死ねと思わないのはたぶんこのせいだ。

がん告知を受けてドン引きしたお見舞いのことば

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夫ががんの告知を受けたことを伝えて、いろいろな反応があった。大勢の方から強められ、勇気づけられる言葉をいただいて感謝している。その一方で他意なくかけられた言葉で文字通り足が震えるほどショックを受けたり、寝入りばなに泣きだしてしまったり、その場は平気なつもりだったけれどあとから便器を鮮血で染めて動揺を知った言葉もあった。

 

それらの多くは判で押したように似通っており、ありふれている。少し考えたらこういった言葉は助けになるよりどころか落胆のもとだということはすぐにわかる。けれども声をかける方も混乱しているから、ふつうだったらいわないようなことをいってしまうのだと思う。

 

わたしも自分がこうなってみるまである種の言葉がどれほど病人と看護している家族にダメージを与えるかわからなかった。がんに限らず怪我や病気、難病奇病をえた人やその家族が、こういったショックを受けることが少しでも減ってほしい。 

 

以下は特定の誰かの言葉というわけではない。また声をかけてくださった方の多くは、これまで常日頃から何かとわたしたち夫婦を気遣ってくださり、ご親切を行動で示してくださった。わたしたちの状況や気持ちを軽く考えて出た言葉ではないことは疑いようもない。これを読んで自分のことだと思う方がおられたら、どうか気を悪くしないでいただきたい。

 

共感しているつもりで悲劇を予言する

「友人もがんで亡くなりました…」

「自分も親が(祖父母が、恩師が、上司が)がんで…結局助からなくて」

 

「身内をがんで亡くした」「知り合いががんで苦しんだ」という人は多い。問題は「誰それ『も』死んだ」と語ることで闘病している人を死者と同列に語ること。これは共感と理解を示しているつもりで「あなたもがんで死ぬ」と悲観的な未来を予言しているのだ。*1

 

告知を受けた直後のこれといった自覚症状がない段階でも「いついつの今ごろはまだ元気だったのにあっという間で…」と劇的な悪化を予言して身も世もなく嘆く人もいる。とはいえ同情心から出た言葉だから「いっしょにしないでくださいよ!」とはなかなかいえない。

 

こういう人はかつて自分が舐めた辛酸による傷が癒えていないことも多く、そのまま自分の苦労語りをはじめて怒ったり泣き出したり、医師に対する不信感や不満を繰り返したりしはじめ、いよいよ不安を煽る。聞かされる側は感情的なケアを要求されているように感じて自分の気持ちを話すどころではない。

 

一口にがんといっても罹患した場所も違えば進行具合も違う。予断をゆるさない状況であっても健康を回復する人はいる。自分の知識の範囲でさほど共通点のない相手に最悪な状況を前提に語るのは現実的な話ではない。ぜったいに止めた方がいい。

 

話を聞いているつもりで自分語り

「話を聞くことしかできないけれど、いつでも連絡して」といってくれる人がいるのはありがたい。でも残念ながら「話を聞くことができる人」はそんなにいない。極限状態の人の話をじっと聞くのはなかなか難しいことだからだ。

 

「何を言ってあげたらいいのかわからなかった」「相槌を打つことしかできなかった」は上等な方で、本当に黙って聞いて相槌を打つだけで話を終わらせた人は賞賛に値する。多くの人は聞き終える前にいてもたってもおれなくなり、話の腰を折り、言葉を遮り、自分が知る範囲での解決策をまくしたてる。

 

薬をかえてみては?支援グループに参加しては?病院に強く意見すべきだ!サプリを、食事を、生活を改める気はないの?もっと話し合わないと!自分の気持ちを伝えることが大切だよ。etc.etc。

 

ここで人生訓や感動話を語りたくなる人も多い。いぜん隣のベッドに訪れた見舞い客が幼少期から老年にいたるまでの苦労話を長時間語り続けるのを聞いたことがある。気の毒に見舞われている側は相槌以外の言葉をすべてシャットアウトされていた。ベッドの病人は逃げ場がない。

 

好意を無下にはしたくない。支援の申し出はうれしい。お見舞いはありがたい。だから相手の気を悪くしたくはない。こういう理由で闘病中の人やその家族は訪問者や支援者の自分語りと提案をなかなかはっきり断れない。けれどもそれらの話を聞かされる疲労感といったらない。逃げ出せない相手にジャイアンリサイタルを開いていないかよく考えてほしい。

 

転ばぬ先の縁起でもない話

「遺族年金の先払いをすませた方がいい」「障害年金の申請はすんだ?」「緩和ケア」「在宅看護」「生命保険の受取名義は?」

 

健康な時に遺言を書き、墓を買い、葬儀会場を決めるのは将来の心配を減らすのに役立つかもしれない。けれども極限状態にいるとき、たとえば事故に遭って救急車で運ばれてきたとか、出産時のトラブルで手術室から出てこないとか、そういう状態のときに待合室の家族に「喪服は?」「お墓は?」といった話をするだろうか。

 

誰もがいつかは生涯を終える。いずれ必要になることだ。とはいえ生きる方法を模索している相手にこういった話をするのは一般的にいって縁起でもないこととされる。がん患者とその家族に対してもそうだ。

 

これらの大半はそのときが来たら考えればいい話なんだし、そういった知識が必要ならそのときに調べておいたことを教えてくれる方がよほどありがたい。何しろこちらは今日生き延びるための問題で手一杯なのだ。

 

「先のことを考えるのはやめなさい、辛いことしかないんだから」といわれて、「そんなことどうして断言できるんだ」と悔しくて悔しくて泣いてしまった日もあった。実際には告知されてからの数か月に楽しいこと、面白おかしいもあった。日ごとに悪くなると考えて絶望するのは現実に順応する最善の策とはいえない。

 

悲劇の美化と合理化

病から気づきを得たり、以前より健康的で健全な生活を手にすることはある。結果的によかった、最高の贈り物だったと考える場合すらある。しかし本人が腑に落ちる過程をすっとばし、周囲が「起きたことには意味がある、これでよかったのだ」と自分が望む結論に帰着させようとしたり、「このように考えるべきだ、あのように感じるべきだ」と本や映画などに出てくる理想の闘病者像を仄めかしたり、押し付けたりされるのは負担になる。*2

 

これは平たくいったら「無駄に足掻かないできれいに死んでね」というメッセージであり、「撃ちてし止まん」を美化する日本の風潮によく似ている。闘病の末の死を一種の殉死のようにとらえ、それを安らかに受け入れるようにお膳立てしたがる人は多い。死を受け入れることの素晴らしさ、死を恐れなかった人々の偉大さをことさら強調する医師の本もある。

 

これらは極限状態にある人を見るに堪えないことから起きることなのかもしれない。老人には醜悪であってほしくない。病人は安らかに死を受け入れてほしい。そうでなければ見ている側はいたたまれない。夢見が悪いから苦しまずに死んでほしい。気持ちは分かる。

 

けれども人は誰かの気分を楽にするために病気になったり老いたりしているわけではない。そして現実は美化された物語のようではない。たとえ親兄弟、夫婦であっても自分にとっての理想の死は自分だけのものにとどめておくこと。

 

また健康なときに他人事として読んで感動した本が、当事者になったときにはまったく違って見えることがあるということを覚えておくこと。飛行機事故の話を地上で読むのと離陸後エンジンがおかしい飛行機の中で読むのとでは受ける印象は異なる。

 

ガン商売業者の斡旋

ある施術を受けるためエステサロンへいったときのこと。オーナーの身内がガンだったということで、後日挨拶がしたいといわれた。夫はそんな風に特別扱いされることを望まなかったが、予約時間をずらしたにもかかわらず、オーナーは雪の中三つ指ついてあらわれ、名刺といっしょにがん患者向け商品のサンプルをあれこれくれた。

 

その後も施術の前後に夫はたびたび「特別な治療に興味はないか」ともちかけられ、、興味がないと断った。「なので、奥さまからオーナーにご連絡いただければご紹介させていただきます」とスタッフはいった。夫が望まないことをしたくないので、とわたしも断った。こうしてまとめ買いしたサロンチケットは未消化のままになっている。

 

オーナーの表情、口調、話の内容全てに「身内をガンで亡くした」という死の臭いが満ちていた。「一般に知られていない特別な治療法」という言葉の裏に「これを受けないとあなたも同じ運命ですよ」という嫌な緊迫感がある。

 

ガン患者相手の商売をしているが書いたらしいブログから「ガン患者は人から嫌がられるガンのような性格だからガンになる。そしてガンが除去され、抹消されるように世間から追い出される」というものすごい記事*3へのリンクを、善意の提案としてこのブログのコメント欄に貼ってきた人もいた。

 

ガン商売にはいくつかのパターンがある。闘病中の人を「おまえが悪い」と徹底的に断罪し、罪悪感を刺激して自信をなくさせ、依存させるものも多い。これは悪質な宗教や自己啓発グループなどにもみられる。*4

 

健康なときにはどんなに荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい理屈であっても「これをやれば助かるけれど、やらなかったらおまえは死ぬ」という言説を切羽詰まった状態で聞くとしばしばダメージを受ける。これは斡旋先が保険適用される医療機関でも同じだ。

 

迷っているときに断言力の強いものに出会うと思考を停止してそこに甘んじてしまいたくなる。自分がどのような治療法を選ぶかは自由だけれど、それに同調させようと圧力をかけないこと。

 

自己責任の拡大解釈

対岸の火事を眺めながら岡目八目気分であれこれいうのはたやすい。「そういう生活をしているからがんになった」「そういう考え方を改めない限りがんは治らない」というのは「スカートが短いから痴漢にあう」「隙があるからレイプされる」と似たり寄ったりで、なんら被害者を助けるものではない。

 

でも言ってる側は気分がいいんだよね、どうも。相手の落ち度を指摘することでなんの持ち出しもなく立派なことをしたような気分になれる。

 

ふだんだったら「なに言ってんだバーカ」ですむ。しかしこういった悪質な自己責任論になかば洗脳された被害者ともいえる人が好意でいってくる場合は複雑だ。「生意気だから男に殴られるのだ」というやつには「バーカ」ですむけど、「私は生意気だったので夫に殴られていましたが、改心して可愛がられています。あなたも身の程をわきまえて反省すればきっとうまくいきますよ」と100%の好意でいってくる善良な人にはことばを選ぶ。それが親しい見舞客であればなおさらだ。

 

こうしてよかれと思って「行いが悪いので当然の報いとしてがんになったのです。行いを改めない限り治りません」といってくる人に言いたいのは、人は誰も完全に病から身を守ることはできないということだ。完全に守れないということはどんな人にでも「だから病気になったのだ」といえる隙があるということだ。その死角をなくすことはできない。

 

死角があっても弾が飛んでこなければ死に至ることはない。飛んでくるか、来ないかは究極的には運の問題だ。水木しげるラバウル戦記を読んでいるとそれを痛感する。

 

わたしは食事をはじめ各種健康療法や医療を否定する気は毛頭ない。けれども人が自分に関して責任を持てる範囲には限界がある。死や病気を自己責任とするのは裏を返せば誇大妄想的な全能感によるものだと思う。そういう幻想にすがるのは不安を抱えた未熟な状態のときだ。

 

「これさえしていればガンにならない」「これをやったらガンで死ぬ」が頭から離れず、自分自身ではなく他人の行動に我慢できなくなったら瞑想するなり塗り絵を塗るなりして自然の摂理に想いを馳せるといいと思う。

  

 

あわてないで落ち着くこと

「がん=即=死」という図式は人を慌てさせる。慌てると人はとにかく急いで何かしなければならないと焦る。こういうときに間違いがないのは、口頭や手紙で「回復を祈っている」と伝えること、あとで「返してくれ」と言わないでいい程度のお見舞いを包むこと、病人の都合のいい時間に顔を見せにいくことだ。

 

「出来ることがあればいって」と伝えるより、車を出す、買い物にいく、調べものをする、力仕事や家事を代行するといった具体的な支援のうち、自分にできることを具体的に伝えること。できればどのくらいの頻度でどの程度できるか伝えておく。

 

まずは何より落ち着くこと。

パニック状態のまま自分がいいたいことを思いついた順に闘病中の当事者や身内に語って困らせないこと。

当事者である病人や看護している身内以上に治療にあつくならないこと。

 

「支援するとは自分が望む結果が出るように行動することではなく、支援する相手が望む結果が出るように行動すること」とカール・サイモントン博士は語る。まいにち何度もその言葉を思い出す。

 

 

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*1:「経験者は語る」調で訳知り顔な人が多い。

*2:「おすすめのがん闘病記はこれ!」みたいな。

*3:思い通りにならない顧客のガン患者への嫌がらせで書いたんだべな。

*4:三大治療や従来の医学を徹底否定してから満を持して民間療法を紹介する、逆に民間療法は効果がないと執拗に言い募り、医学を信頼しないやつは知能が足りないと仄めかすなどもよくある。主張は違えど両者は表裏一体で、そこにあるのは自説のごり押しと意地だ。「なんでも試してとにかく生き延びよう」という精神からは遠くかけ離れている。

難病、奇病、がんになるのはスルーできる他人ばかりではない

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がん告知を受けてドン引きしたお見舞いのことば - はてこはときどき外に出る

今までの人生経験プラスこういうの読むと「どこに地雷があるかわからない」=何が相手の逆鱗に触れるかメンタル攻撃になるか皆目見当が付かないと思われるので結局「関わらない、何も言わない」になるんだよね、俺。

2016/05/02 09:42

医師ですらこれをやるから普通の人がこうなるのは無理もない。談笑しながらベッドをまわってきた医師がこちらのベッドに向き直ったとたん「はっ」とお通夜顔になり、「具合はどうですか?…そうですか…では」と動揺しながら去って行く姿はなんともいえない怖さがある。*1ぜひ一度みなさんにもその目で確かめていただきたい。それが当事者としての経験でないようお祈りする。

 

しかしですね、「何も言わないのがいちばん」「黙っているしかない」と思っていらっしゃるみなさんは、心のどこかで「難病奇病はさほど面識のない赤の他人がかかるものだ」と思っているのではないでしょうか。また自分自身がそのような病をえた場合、ひとりで黙って玉子酒を飲んで布団に入っているようではすまないということをイメージできていないのではないでしょうか。

 

大病を隠し通すことは可能か 

ガンに限らずたいていの難病、奇病には通院、手術、入院がつきものだ。学生であれ勤め人であれ、地域と繋がって何らかの社会生活をしている人は治療のためにちょいちょい場を離れるため連絡する相手がいる。休みをとるなら診断書も出す。学生であれば生活制限を伝えるため担任とも話す。

 

入院、手術の保証人を頼む相手も必要だし、留守を頼む家族にも事情を話さなければならない。手術の同意書にサインをもらうなら病状について隠し立てはできない。だまって仕事や学校を休んで、誰にも話さずひっそり入院し、手術を受け、こっそり通院するのはなかなか難しい。

 

これは立場を入れ替えれば職場の同僚や部下から、上司から、受け持ったクラスの生徒から、ともに地域の役員を引き受けたご近所さんから、成人してからほとんど接点がなかった親兄弟から、息子や娘から、祖父母から、ある日とつぜん「実はがんの告知を受けた」といわれる可能性が誰にでもあるということだ。「うまいこといえないからパス」と見捨てられる関係の相手ばかりではない。*2

 

「実はがんで…」 「あ、そうなんですか」ですむ相手ばかりではなく、「それではお大事に」で終わる話とは限らない。

 

告白の目的に応える

その人があなたに病状を伝えたのはなぜなのか。

 

多くの場合その目的は、情けをかけてほしい、人生訓からアドバイスをえたい、特別な治療について教えてほしいというよりは、事情を理解してもらうため、闘病生活で便宜をはかってもらうためだ。不安と動揺を鎮めるための話し相手を探している人ばかりではない。

 

誰にも言いたくなかったけれど、言わざるを得ない状況に追い込まれた人からそのような話を聞くこともある。そういうときに必要なのはウケのいい話術ではなく、現実的な意思疎通力と常識的な礼儀作法だ。

 

そういう場面でことさら悲劇的で不吉な予言をしたり、現実離れした精神論や理想論を語ったり、効果が定かでない治療法をごり押ししたり、悲劇を美化したり過剰な自己責任論をぶって罪悪感を煽ったりするのは問題解決を妨げる。

 

山奥で交通事故に遭い、助けを呼ぼうと電話をかける。電話に出た相手が自分語りをはじめたり、自己責任だと説教をしてきたりしたらどう感じるだろう。「その話は落ち着いてから聞く。それどころじゃない」と思うんじゃないですかね。

 

最善でなく次善の策を目指す

今回の事でわたしも大いに気が動転し、当事者であるもちおを気落ちさせるような役に立たないことを何度もいった。そして同様の言葉を外から言われてみて「自分がもちおにいったのはこういうことだったのか」と気が付いて、大いに反省した。これはいかんよ。

 

わたしだって生きる気力を蘇らせる感動的な言葉やすばらしいアドバイスが言えたらいいと思う。それが出来ないなら素知らぬ顔で黙って通り過ぎる方が楽だ。失言で恥をかいたり、自分を責めたりしなくてすむもんね。

 

でも黙って離れるわけにいかない人が病をえることは起きる。一生そういうことが起きなかったらとても恵まれたことだよ。そんなまれな幸運に期待するよりも、先人の知恵から学んだ方がいいよ。

 

お見舞い上達のコツは「お見舞い上手についていくこと」と書いてあった。何事にも先立はあらまほしきことなりだよ。お見舞いの本は図書館にもあるからね。

 

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*1:病状が深刻だった人あるある。いろいろな本で読んで「あ!うちも!」と思った。

*2:実際それで逃げてしまう人もいるそうで、告知を受けたことを恋人に伝えたら「俺そういうのダメ」と別れられたという話もあった。

「夢でよかった」

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先日もちおと鳥取へ湯治へいって温泉宿で布団を並べて眠った。

朝方わたしが目を覚ますのとほとんど同時に、もちおが「あぁ!」と声を上げて起きた。

「…ああ…夢か…夢だったか」

並んだ布団に手を伸ばすともちおがこちらに入ってきた。身体が強ばっている。

「よかった…よかった」

もちおは妻を抱きしめて泣いた。様子がおかしくて少し怖くなった。

「怖い夢みたの?」

「うん」

反射的に「死の夢では」と身構えた。

「結婚して一ヵ月ではてこさんが死ぬ夢やったそいや。俺、自転車乗りながら泣いとった。よかった…夢でよかった…」

そっちか。

 

「結婚して一ヵ月ではてこさんが死んでしまってな。葬式も終わって、あのとき住んどったマンションにはてこさんの親戚みたいなばあちゃんと俺と二人で話とるんよ。『美人薄命っていうもんねえ。ばあちゃんが料理を作ってやるから肉を買ってきなさい』っていわれて、俺自転車乗りながら『一ヵ月しかいっしょにおれんかったなあ…』って泣いとった。夢でよかった…」

 

もちおは妻を抱く腕に力を込めてまた泣いた。涙が温かかった。(これは分岐した未来の夢だ)と思った。わたしは結婚当初、本当に数か月で死にそうだった。結婚の条件はわたしを看取ってあとの始末をしてくれることだった。

 

もちおはわたしと出会ってからしなくてもいい苦労をわたしのためにずいぶんした。告知を受けてから「もしもわたしと結婚しなかったら、もちおはがんにならなかったんじゃないか」と何度も思った。もちおもそう思うことがあるんじゃないだろうか。後悔しているんじゃないかと思った。

 

「よかった。いっしょにおれてよかった」ともちおは妻を抱きしめてしばらく泣いていた。もちおがよかったのならよかったんだと思った。何がもちおにとってしあわせかをわたしがジャッジしようとするなんて差し出がましいことだ。

 

さっきもふらりとやってきて「もちおははてこさんの文章読んで結婚しようと思ったんだから、書いたらいいよ」といって、妻の頭をぽんぽんして去って行った。

 

というわけで、わたしはこれからもほそぼそブログを続けてまいりますので、応援してくださるみなさまには、今後ともよろしくお願い申し上げます。いつも影に日向にあたたかいご声援とご支援ありがとう。

 

今日のダンナCommentsAdd Starbabi1234567890 (green)kwi22zzteralin

個人の収入を決算している妻。

「思ったより稼いでた」
「ほう!すごいね」
「『はてこはそんなに自由に使えるお金もっててずるい』ってもちおが思うんじゃないかってちょっと心配になったの」
「へえ」
「でも、もちおはきっと『はてこに好きなものを買ってやる機会が減って残念だな』って思うだろうと思ったの」
「そこまでじゃないな」
「あ、そうですか」
「うん。残念じゃないよ。俺ははてこさんが好きだからほしいものを買ってやりたいんだよ。はてこさんが貧しいからじゃないんだよ」

もちおは愛妻家じゃなかったらジゴロの才能あったと思う。
 
 

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水木しげる記念館をたずねて境港の大漁丸で寿司を食べた

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鳥取県境港駅から続く水木しげるロードへいってきました。境港の駅には鬼太郎仕様の電車が走り、沿道には妖怪ブロンズ像が立ち並び、撮影スポットは盛りだくさん。でも目で見るのに夢中で写真はあまり撮れなかったよ。

 

境港駅前の様子。看板の巨大な妖怪たちがなんとも楽しげでかわいらしい。

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駅前に並ぶタクシーにも目玉がついていた。カラスや鳩を見なかったけどそのせいか。

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水木しげるロードには人形、カード、お酒やTシャツ、バッグや布小物など手作り風の妖怪グッズを売る店がたくさんあった。

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妖怪パン。

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妖怪人形焼き。

wikiには「オブジェの製作にかかわる水木への著作料については無料とする協力も受けている。」とあるけれど、これには水木しげるロードにならぶグッズの著作料も含まれているのかも。オリジナルキャラで町おこしだよ。町を、おこしちゃうんだよ。偉大な功績だよね。水木しげる記念館があるなら境港までいくぞ、と思わる水木先生すごい。

 

水木しげる記念館

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かの有名な妖菓目玉おやじ目玉おやじ像と対峙するもちやま。 

周辺をうろうろしていた猫娘鬼太郎、砂掛け婆らがワゴンに乗って出かけていくところだった。駅前にいくのかな? 「鬼太郎ーーー!鬼太郎ーーーーー!!」と絶叫する子供がワゴンの窓に駆け寄って同伴のおばあちゃんを困らせていた。わたしは鬼太郎テレビシリーズ2期世代なので鬼太郎というと「懐かしの」なんだけれど、さいきん生まれた小さな子供にも人気があるんだね。どこで知るのかな。

 

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館内の中庭にあるゲゲゲハウス。

 

水木しげる記念館はこじんまりしたところだけれど、水木しげる年表、水木漫画の紹介、再現された仕事場や妖怪館など気が付くとずいぶん長い間楽しませてもらった。過去の水木作品を座って読めるコーナーもあり、著作を買うこともできる。鳥取にくるまえ出雲大社へ参ったのでこれを買った。

 水木さんがインタビューに答える動画があちこちで上映されていたのも楽しかった。歴代のアニメのコーナーがあったら観たかったなあ。企画展や模様替えはやっていない様子だったけれど、展示入れ替えがあったらもっと何度もいきたくなるのでぜひお願いします。

 

境港駅前 回転すし「大漁丸」

境港は新鮮なお魚が自慢。先ほど紹介した境港駅前の建物には鮮度を保つ特殊なチルド方法を開発した回転すしのお店が入っている。

このお値段でこのお魚が?!と驚くようなコストパフォーマンスのよい店だった。平日で空いていたので、タッチパッドで注文すると前さんがカウンター越しに板握りを届けてくれる。とくに美味しいのは鳥取&島根名物のどぐろ。鳥取&島根いったらのどぐろ食べないと!

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一皿238円。もちおはこの店ののどぐろがたいそう気に入ったらしく、このあと湯治を終えてから数日後遠回りしてこの店に戻り、ふたたびのどぐろを食べて帰った。食欲に驚く。

 

そして鳥取といえば蟹。

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蟹三昧333円。「蟹と梨は知り合いからまわってくるから鳥取県民は自分で買わない」と鳥取あるある本に書かれていた。ほんとに?!

 

あら汁

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たしか100円くらい。そりゃもちろん美味しいですよね。よそじゃいただけませんよ。

 

宿は素泊まりで予約したのでお寿司を持ち帰りにしていただいた。1000円。

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一貫、一貫感動的に美味しかった。うちの実家は寿司にはこだわりがあって「これ!」という店が決まっている。でも寿司で贅沢をするなら鳴物入りの高級店より魚が新鮮で空気が美味しいところまで足を運ぶほうが贅沢だと思った。みんなも境港へいくといいよ!

 

駅前の足湯

写真がないけれど、駅前にはホテルが用意した無料で入れる足湯もあるのでタオルハンカチなどお持ちになるとご便利です。

ちょうど地元のご老人と妙齢のご婦人方がよもやま話をしながら浸かっているところだったので、気さくに話しかけてくださった方とお喋りをした。

 

「まあ!福岡から来られたんですか!福岡の方とお話するなんて!」

「わたしも境港の方とお話できて光栄です!いいところですね!のどぐろも美味しいし!」

「あら、そうですか」

「召し上がりませんか?」

「うーん、そうですねえ…」

「のどぐろは食べんよ。高いもん」

「そうそう」

 

そうか…。鯵でも鰯でも美味しいからあえて食べることないんかのう…。夢中で食べちゃったよ。

「ご旅行ですか?」

「はい」

「いいですね。私も主人いたころは色々なところへ旅行にいきました。いい思い出です」

ご婦人は静かな笑顔でしんみりとおっしゃった。だいじな人といろいろなところへいくといいよね。一緒にいけるときに、いける間に。

 

夜は宿で「水木しげる伝」をふたりで回し読みした。この話はまた別の時に。 


三朝温泉 もみの木の宿 明治荘で湯治

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温熱医療のメッカ、鳥取三朝温泉へいってきました。古くからある湯治場です。

伝説によれば1163年に発見されたという歴史的な温泉で、源義朝の家臣、大久保左馬之祐(さまのすけ)が源氏の再興を祈願し、三徳山三仏寺に赴いた折に命を救った白狼が夢枕に立って、楠の老木から湯が湧き出ていることを教えたといわれる。この湯が元湯の株湯である。

三朝温泉 - Wikipedia

まじで古い。源泉中のラドン量は683.3マッヘ。マッヘという単位をはじめて知った。「周辺住民の癌による死亡率は全国平均の半分で、成分分析で通常の井戸水の8500倍もの放射線が検出」。なんかすごい。放射線ってなんだろうと考えてしまいますね。

 

お湯は無色透明、口に含んでも飲みやすく、肌あたりやわらか。でも熱い。ラドン温泉はすぐのぼせるので用心しいしい入るのがよろしゅうございます。わたしは温泉へいってもだいたい一度入って終わりなんだけれど、三朝では一日に何度も入っちゃった。

 

お宿はこちら。

昔からのお宿で目新しい設備はないけれど、手入れが行き届いて清潔でなんとも気持ちのいいお宿であった。それで素泊まり5000円からですよ。穴場ですよ。

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宿の中庭を囲むように建てられており、どの部屋からも美しい日本庭園が見える。

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庭の真ん中にはシンボルツリーの樅の木。池にカルガモがやってきて卵を孵し、コガモを連れ歩くこともあるのだそう。

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カーテンが遮光じゃないことも個人的にポイント高い。小鳥の鳴き声とともに朝日がカーテンと障子をすかして入ってきて気持ちがよかった。

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次の間にあるレトロな冷蔵庫。電気ポットはなく、仲居さんが頃合いをみて沸かし立てのお湯が入った魔法瓶を持ってきてくださる。

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蛇口から温泉が出る。もう汲み放題、飲み放題。それどころか「ちょろちょろ出しっぱなしにして湯気を出してください、ホルミシス効果があって身体にいいです」と仲居さんが。そんなぜいたくな使い方をしていいんですか。

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蛇口から温泉出るので部屋風呂でも温泉入り放題。これが思いの外便利。大浴場もいいけれど、部屋で気楽に出入りできるお風呂があるのは湯治向き。

 

三朝の温泉街

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宿のレビューを読むと食事が美味しいと評判なのだけれど、量が多いので素泊まりにして、町に出て食事をする。橋のたもとの居酒屋茶田屋さん。

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海鮮丼1000円。え!なにこれ!と思う美味しさであった。量はやや少な目。でもわたしたちにはちょうどよくて助かりました。

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真摯な表情で料理を作るおやじさん。鉄板焼きも美味しそう。禁煙席がないのがたまに傷。でも居酒屋だからねえ。

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細い路地に浴衣姿の湯治客が往来する。

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スマートボールやアナログパチンコの娯楽場。

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高野豆腐の彫刻。いったい誰がなんのためにはじめたのかは読み落としました。

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白狼が温泉へ導いたという伝説がある。狼も温泉すきか。

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ここで温泉を汲んで飲める。ショーウィンドウには三朝温泉が舞台になった映画やドラマが。テルマエロマエにも登場しているとのこと。

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朝はこの店でカレーを食べていた。料理もいいけど、漫画のラインナップがいい。残念ながら早く閉めちゃう。

朝ご飯

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二度目の宿泊では朝食つきを選びました。盛りだくさんで食べきれない。「おにぎりにしていただけますか?」とお願いしたところ、「三朝はお米が美味しく、水もいいからご飯が美味しいんです」と快く応じてくださった。

宿のお米はこれではなかったけれど、三朝は米自慢だそう。メダカが住める水の田で育つお米なのね。

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美味しゅうございました。帰路10時間ドライブをこれで乗り切った。

 

湯治効果

もちおはこの街と宿がものすごく気に入った。どのくらい気に入ったかというと、通院で一度福岡へ帰ったあと、三日後にまた予約を入れてトンボ返りで泊まりに行くくらい気に入った。奥さんがだいぶ運転がんばったらしいですよ。ええ。でもその甲斐あって旦那さん、ずいぶん元気になったんだって。ご飯が美味しく食べられるようになって、帰りはかなり旦那さんもハンドル握ってたそうです。たぶんまたきっと行きます。

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ラジオで自分を取り戻していたときのこと

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もちおが入院していたころ、面会時間が終わる20時に始まる「HKT48渡辺通り1丁目FMまどか まどかのまどから」という番組を聴くのが習慣だった。森保まどかちゃんがたどたどしく司会進行し、ゲストのHKTメンバーとキャッキャするのを聴いて楽しむ番組。

去年の暮れまではちょうど夕飯の用意や片づけの時間だったので、家事をしながら台所でなんとなく聴いていた。当初はAKB関連のアイドルラジオ番組という印象しかなかった。*1実際それ以上でもそれ以下でもないんですが、連日入院見舞いに通っていたあのころ、この番組にはずいぶん助けられた。なぜか。

 

がんに限らず、おそらく難病奇病をえた方、またそのお身内の方はそれまでの日常をとつぜん失う。治療に関係する本を読みきれないほど集め、健康法に関係する情報に頭を占拠され、思いは未来への不安と過去への後悔でいっぱいだ。

 

重い病気は激しい恋に似ている。何をしていてもそれ以外のことが考えられなくなり、他の事が手につかなくなる。まだ起きていないことを期待したり絶望したり感情が安定しない。涙もろくなり、体調も不安定になる。こういう状態を「我を忘れる」という。

 

すっかり日が暮れた病院の駐車場を突っ切り、ひとり車に乗り込んで、駐車場のおじさんから領収書を受け取り、表通りに出る。明るいニュースは何もない。無力感と焦燥感と空腹を抱え、これから家に帰って明日の面会までに済ませなければならない家事の段取りを考える。これがいつまで続くのか、どんな形で終わるのかを考えて胸がいっぱいになる。そんな日も森保まどかは時間通りにやってくる。

 

HKT48 渡辺どおりいっちょうめ、FMまどか! まどかのまどから~!」と、森保まどかの間延びした声がラジオから聴こえてくる。「きょーもさいごまで、よろしくおねがいします!いぇー!(拍手)」

 

森保まどかはわたしの問題を解決するような話はしない。その代わりに不吉な予言をしたり人生を語ったりもしない。健康法も語らないし先進医療も医療の裏事情も語らない。個人的な愚痴や不満や悪口に同調するよう圧力もかけてこない。

 

お題の駄洒落作りに悪戦苦闘し、緊急度の低いお悩み相談にゆるく答え、ゲストメンバーと内輪話で盛り上がる森保まどか。聴くともなしに聴いていると、ゲストの悩み相談について考えたり、「なんだそれw」と思わずひとりで突っ込みをいれたりしている。

 

ラジオを通してこんな風に知らない人のお喋りに耳を傾けることで、病気で我を忘れていた状態からいつのまにか我に返っている。激しい恋に落ちて「二人のため 世界はあるの」状態の人が、一瞬以前の自分を取り戻すみたいに。

 

重い病気と激しい恋の違うところは、激しい恋に落ちた人は「自分を取り戻さなければ」と自戒もし、周囲からも冷静になるよう諭されるけれど、病気の場合は「病気について考えなければいけない、考えるべきだ」と思ってしまうところ。そしてそれ以外のことに注意を向けることに当事者は罪悪感を覚え、周囲も当事者を責めることだ。*2

 

すでに消化しきれない情報に埋もれ、負いきれない課題を抱え込み、そのうえ一朝一夕でどうにもならないことを考え続けるのはただただ消耗する。切羽詰まった人の知能は知的障碍レベルまで落ちるという実験がある。でも考えることを止める方法が、止めていいと自分に許可する方法がわからない。

 

こういうときにラジオはとても助けになった。ラジオは知らないうちに袋小路から外の世界へ、それ以外の日常へ誘い出してくれた。

 

家に帰りつくころ「未来の鍵を握る学校 SCHOOL OF LOCK!」が始まる。

中高生を笑わせ、ときに泣かせ、叱咤激励するこの番組に、わたしがメールを送ることはこの先もないと思う。とーやま校長、あしざわ教頭は仕事から帰る夫を待つわたしがリスナーの子供たちといっしょに笑っていたことも、病院の夫を思い出しながらひとり夕飯の支度をしていたことも、知ることはない。でもとーやま校長、あしざわ教頭の二人には、つらい時期、ずいぶん助けられた。

 

いまではわたしはラジオパーソナリティーは尊いご職業であると思うようになった。目だって注目されることも、反響をつぶさに知ることも少ないだろうけれど、人知れずつらい思いを抱えている孤独な人が、仕事のあいまに、運転しながら、ベッドで目を閉じて、その人のおしゃべりを聴いている。ラジオスターは死なない。

 

お見舞いで何を話していいかわからないからいかないのがいちばんだという人に伝えたいのは、「病気の話は間にあっているから、ふだんその人と楽しんだ話題がいちばんよ」ということ。どんなにくだらない話でも、その人を笑わせたり、安らがせたり、何かに夢中にできたなら、高価な薬を届ける以上に身体にいいことをしたことになるよ。看護している人にもね。

 

最終章に看病する人が自分自身を守るために何ができるか書いてある。「病人が必要とするのと同じ気遣いを自分自身も必要とすることを忘れるべきではない」とあって、深く考えさせられた。闘病中の人とのコミュニケーションで起こりがちな問題と解決策など現実に即している。サイモントン療法の本だけれど、最終章だけでも大いに読む価値がある。

 

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*1:菊池桃子斉藤由貴が十代でしっかりしたラジオパーソナリティーをしていたころを覚えている世代なので「中学生くらいかな?」と思っていたらまどかちゃんは18歳だった。

*2:ブログなんかやめてダンナの看病しろとかね。

脱ポジティブ思考&ネガティブ思考 腫瘍精神科が教える「現実的思考」

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免疫向上という視点から見るとポジティブ思考はネガティブ思考と同じくらい危険をはらんでいるので、現実的思考がベストだという話を読んで目から鱗が落ちたので、今日はそのことを書きます。すごく役立つよ!

 

過大評価されがちな「ポジティブ思考」

考え方は免疫に大きく影響するという。確かにそうだと思う。しかし「だからネガティブに考えるのはよくない、ポジティブ思考がたいせつだ」という話になると少し違うと思う。

 

世の中にはポジティブはいいもの、ネガティブは悪いものと思ってる人がいる。しかし陰陽五行などでも陰は悪、陽は善というものではない。わたしは以前からポジティブ思考というのは取扱い注意であまり信用できないしろものだと思っている。根拠のないポジティブ思考は現実否認と不安の裏返しである場合があると緩和ケア専門医のガボール・マテが「身体が「ノー」と言うとき」に書いていた。確かにそういうケースはよくある。*1むしろ大切なのは「ネガティブ」な出来事も含め、現実をありのままに認めることだとマテ博士はいう。

 

一方で最初に書いたように「悲観的に考える人は免疫が落ちる」「がんとうつを併発すると免疫低下が著しい」というのもまた真実だ。*2じゃあどうすればいいの。明るく考えても暗く考えてもダメ。要はふつうが、ニュートラルであることがいちばんということだ。

 

「思考は現実化する」が脅威になるとき

平時ならこういう話題は思考実験だけれど、切羽詰まった極限状態に立たされると自分が何を考えるかでいちいちおろおろせずにいられない。「人の思考は現実に影響する」という言葉が異常に真実味を帯びて聞こえるからだ。

 

漫画「コブラ」の信じる者だけが見える山という話をよく思い出した。疑ったとたんに山は消え、登山者は死に見舞われる。コブラは最後まで山の存在を疑わず、登頂を達成する。登頂には遭難中のレディがいたのだった。もちおの回復という山をわたしは信じきれるだろうか。

 

「ぜったいによくなるから。ね。大丈夫。ぜったいによくなる」といった人がいた。信じたいけれど信じられる根拠がない。医学的な見解は非常に暗い。医者の顔も暗い。病室の空気も重く、もちおの身体だけがどんどん軽くなる。

 

「よくなってほしい」から「よくなるに違いない」と「信じる」?
それは現実を否認して偽りの希望で自分を扇動するということじゃないのか。

でも、わたしがそう信じられなかったら物事は悪くなるのだろうか。 わたしが信じられなかったらもちおの命が危険にさらされるのだろうか。

だけど少しでも「よくなるかも」って思っちゃったら、そうならなかったときにまたうんとつらい思いをするのが怖い。

 

一方で「覚悟を決めて残された時間を大切に」という人もいた。これは
「現実をありのままに見つめる」考え方だろうか。不確定な未来を断定するという点ではこれもまた現実的だと思えなかった。

諦観をすすめる考え方の背後には絶望しておけばそれ以上落胆することもないという考え方がある。来るべき悲劇に備えて予防線を張ることは何ら現状に希望を持つ助けにはならない。

ああ、でも。わたしが「万が一に備えなければ」と思った回数だけ、その時間分だけ、悲劇的な未来が現実化するように運命が動くのだったらどうしよう!

 

こうして「よくなる」と思っても、「万が一を覚悟して」と思っても恐怖を感じた。一瞬ごとに見えない世界と取引をしているようで、敷石の縁を踏まずに歩こうとする子供のように強迫観念は強まるばかりだった。

 

ポジティブでもネガティブでもない「現実的な見方」

「前門の虎、後門の狼」ともいうべきこの問題の解決策をこの本で知った。

著者は精神腫瘍科の医師である保坂隆先生。精神腫瘍科はがん患者を専門に扱う精神科。「がんを告知されたら読む本」にもあったけれど、がんの恐ろしさはある意味身体的な苦痛以上に「苦痛に満ちた死」というイメージによって精神をさいなまれることにある。闘病中の人の多くは程度の差はあれうつ状態に陥りやすい。腫瘍精神科医はそのような状態にある人がバランスのとれた見方を取り戻すのを助ける。

 

一般的な精神科の治療は抗うつ剤など向精神薬の処方が中心だ。でも腫瘍精神科を訪れる人の多くは化学療法などですでに薬物による治療を受けている。そのためこれ以上薬物を摂取したくない、複数の薬による副作用を受けたくないという人が少なくない。よって治療は認知行動療法や運動指導などカウンセリング中心になる。*3

 

さて、治癒が難しく、生存率の低い病気にかかった場合の現実的な見方とはどういうものか。

 

ポジティブ思考 治癒が難しく、生存率は低いが絶対に治る
ネガティブ思考 治癒が難しく、生存率の低いから絶対に治らない
現実的思考 治癒が難しく、生存率の低いが治らないとは限らない

 

おわかりいただけただろうか。もちろんこれは「治るとは限らない」でもある。けれども「治らないとは限らない」のだ。治らないとは限らないのだから、出来ることはある。やれることをやるだけの価値はある。これが現実的思考。

 

平時には「なーんだ」と思うかもしれない。けれども刃物の上を素足で歩くような緊張感に支配されているときに「治る」でも「治らない」でもなく「治らないとは限らない」という現実的で異論の出しようのないこの考え方の強さと安定感は絶大だ。悪魔とも天使とも取引しないですむ。「よくなるかもしれない!ああ、でも期待するのが怖い」「よくならないとは限らないんだからよくなるかもしれないと信じるのは現実的だよね」「万が一のことが起きるかもしれない」「でも起きないかもしれないんだからそっちの可能性も考えていいよね」そしてその少しの余裕が目の前の現実的な手立てに着手する力になる。

 

絶対的な効果が保障されている薬、治療法、健康法はない。それは仕事でも人間関係でも投資でも天災でもそうだ。未来は不透明で人生は不確かだ。でも「よくならないとはかぎらない」のだ。よくなるかもしれないことがあるなら取り組む甲斐がある。生きている間は何かしらできることがある。この考え方はいろいろなところで役立つ。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:ネガティブ思想のポジティブな力と失恋の教訓

*2:言うまでもなく厳しい現実に正直な目を向けることと悲観主義は厳密には違う。

*3:これが身体にも経済的にも国の健康保険的にも負担の少ない本来の精神科だと思うなあ。でもカウンセリングや指導だと点数低いから一般の精神科ではやらないんじゃないかってさ。

曝露と抗がん剤治療中の性行為と避妊問題続報

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こちらのエントリーの続報をお知らせします。

kutabirehateko.hateblo.jp

前回のエントリーで「抗がん剤治療中の人は危険、伝染病患者のように避ける必要がある」と警戒した人がいたならぜひ誤解をといていただきたい。

 

抗がん剤の曝露

抗がん剤治療中はトイレなどの飛沫に家族がふれないように」とうい注意が看護士からあった。抗がん剤点滴担当の看護士のみなさんは抗がん剤による曝露(ばくろ)を避けるためゴム手袋をし、普通のマスクと防水マスクを二重にして厳戒態勢だ。これは抗がん剤による曝露を防ぐため。曝露について調べてみるとこんな記事もある。

blog.gannoclinic.jp

抗がん剤そのものだけでなく、治療中の人の汗や尿など代謝物も避けるようにというお話。抗がん剤治療中の人と接するに当たり、伝染病の隔離なみに注意が必要だとしたら、院内のトイレも浴室も要注意だし、湯治場なんかすごく危ないところじゃないか。大丈夫なのか。

 

前回ガン患者が性行為、自慰行為を楽しむさいの工夫と注意点について書かれたがん患者のセックスを紹介した。抗がん剤治療を受けている場合は避妊するようすすめられている。避妊の目的が曝露防止にあるならコンドームを使用するべきなのか、また膣外であっても抗がん剤投与を受けている人の精子を身体に浴びるなら化学物質の影響を受けるのか。さらに疑問が深まった。

 

抗がん剤もいろいろ

先日受診のさいにもちおが医師に直球でセックスの質問して、以下の事がわかった。

  1. 抗がん剤は催奇性の点で安全性の保証がない。なので避妊をおすすめする*1
  2. 目的は避妊なので手段はコンドームに限らずピルでもよい

 

思わず「え!ピルでもいいんですか?」と横から聞いてしまった。

「ピルの避妊成功率は高いですよ」

抗がん剤使用中はトイレでの飛沫にも注意するように言われたんですけど」

「どこで誰から?」

わたしたちにその点で注意を促したのは点滴担当の看護士であった。医師は「なるほど」とうなずいて以下のように説明してくれた。

 

抗がん剤の中には放射線を照射した薬もある。それらが排泄物に出てきたときどのような影響を及ぼすかはわかっていないので、念のため注意するよう伝える場合がある。*2しかし今回もちおが使っている薬はそれに該当しないので、代謝物や排泄物に注意する必要はない。

 

つまりどの程度曝露を警戒すべきかは薬による。看護士の注意には免疫低下の観点から公衆浴場へ行かないこと、発酵食品を食べないことなどもあった。これも「そういう薬もあり、そういった注意が必要な体調に陥る人もいる」ということで現状ではもちおに当てはまらなかった。湯治や公衆浴場についても心配ないということだった。聞いてよかった。医師と看護師では見解が違うこともあるのだ。

 

通院先は毎日数千人の予約患者を捌くマンモス病院で、医師の連絡や注意事項が看護士に伝わっていないこともある。点滴の時間や針の太さなどあとあと大きく影響することも含まれるので都度自分で確認しなければならないということがだんだんわかってきた。性行為に関してもそうなのだ。

 

確認することの大切さ

前回紹介した「がん患者のセックス」にこんな話があった。ある既婚男性がガンになった。男性は医師から避妊をするように指導を受ける。避妊をする=セックスを控えるということだと妻は思った。二人はその件について話し合うことも、医師に確認することもしなかった。残念ながら夫は数年後にこの世を去った。

 

この夫婦は子供を挟んで川の字に眠っていた。夫は何度か妻と二人で寝たいといってきたことがあった。妻は夫を失ったあとで「夫はあのとき私と愛し合いたかったのではないか」と思った。自分は妻であり、母であることに一生懸命で、女として夫と向き合うことを忘れていた。そのことがいまでも悔やまれると。

 

「避妊する」というひとことではわからないことがたくさんある。安心して楽しめる愛情表現を無知と誤解から控えるのは惜しい。

 

あなたの大切な人があなたと愛し合うことを望むとき、そこにガンと治療にまつわる疑問があるならぜひ医師に確かめてみてほしい。口づけをすること、抱きしめること、ひとつになることが免疫を向上させることだってある。

 

また、見当違いに曝露を恐れ、不必要に闘病中の人を孤立させたり、子供を遠ざけてしまったりすることがなくなってほしいと思う。誰もが適切なスキンシップを必要としている。病にあるときはとくにそうだし、愛する人を看病する人にもスキンシップは必要だ。

 

それにしてもガンでこれなんだから、エイズ感染症に関してはもっともっと言いづらい、聞きづらいことがたくさんあるだろうな。そういう現実的で実際的なハウツーについて、もっとドライに話し合えるようになればいいのにね。

前回紹介したときよりも中古本がえらい値上がりしていてびっくり。kindle化はよ。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

*1:問題が起きたということではなく、起きる可能性があるということね。

*2:問題が起きたということではなく、起きる可能性があるということね。

100人中100人に絶賛されてきた特技

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わたしには幼少期から十代にかけて、人前で披露するたび絶賛されていた特技があった。何かと周囲から浮いて槍玉に上げられることが日常だったわたしの人生において、あのようにすべての人から手放しで無差別に褒められることは他になかった。先日このTweetを読んで思ったのだけれど、もしかしてあれが自分の強み、天与の才能だったのだろうか。

わたしの特技、それは「怖い話をすること」であった。

 

語り部デビュー

4歳だったと思う。友達の家で遊んでいたわたしたちちびっこに友達のお父さんがいわゆる「怖い話」をしてくれた。「深夜のトイレで視線を感じ、見上げると天上の羽目板の隙間にこちらをのぞく顔があった」という王道の話であった。それがわたしが生まれて初めて聞いたオカルトホラーであった。

 

わたしはその話をすぐさま幼稚園で話した。「それでこうやって、上を見たら…そこに人が…こうやってこっちを見てたんだって」ぎゃー!と園児たちはわめいた。わめく園児を見て何事かと話の輪にさらに人が加わった。わたしはまた同じ話をした。ぎゃー!と園児たちはわめいた。これがわたしの怖い話デビューであった。

 

子供は怖い話がすきだ。その後わたしは頼まれるまま繰り返し同じ話をした。そのたびにぎゃー!と園児らはさわぐ。なかでも特別オカルトに魅せられた子供がいて、その子は「怖い話をひとつしてあげる」という条件でなんでもいうことを聞いてくれた。それ以前に仲が良かったわけではなかったのに、下僕のようについてきて怖い話をせがむ。以来わたしは怖い話のネタ収集をはじめた。

 

小学生時代

幼少期は親類縁者の大人に頼って口伝えにネタを集めたが、字が読めるようになると雑誌「ムー」をはじめオカルト関連書籍の体験談を熱心に読んだ。夏休みに放映される「あなたの知らない世界」の再現VTRも重宝した。

 

わたしはけして誰からも好かれる子供ではなかった。教師からも生徒からも父兄からも、好かれるときは熱烈に好かれ、嫌われるときも心底嫌われ、中間層には戸惑われる。そんな子供だったのに、怖い話をするときは周囲の人々が一丸となって集まってくる。誰も話の邪魔をしない。聞き手はクラシック演奏会なみに互いを牽制しあい、固唾をのんで話に耳を傾けた。

 

休み時間はもちろん図画工作や家庭科などある程度自由に席が異動できる授業では「はてこさん、怖い話して」と誰がいうともなく人が集まってきた。クライマックスでは誰かしらぎゃー!と悲鳴を上げる。「おい、授業中だぞ。静かにしろ」とは誰も言わない。ふだんは机に向かっているだけで何かしら教師に因縁をつけられる子供だったのに、怖い話関係では一度も叱られたことがない。

 

わたしの学校ではクラス主催のお楽しみ会が開かれることがよくあった。班ごとに出しものを企画する。人形劇、漫才、コント、クイズ、「はてこさんの怖い話」。それは班の出し物じゃなく個人の芸だよね?成果物もないよね?と思ったが、学級会では満場一致で可決され、ふだん何かと口をはさむ教師からの物いいもなかった。

 

「はてこが怖い話をする」という話を聞いて、友達の家に仄かに憧れている男子が来たこともあった。ホラー映画なら観ていて怖くなったら画面から目をそらすものだけれど、怖い話をしているときはなぜかみな話し手のそばにじりじり集まってくる。問題の男子が肩に息がかかるほどぴったり身体を寄せて冷や汗をかいている様子に内心ときめきながら、わたしは淡々と手持ちのネタを語り続けた。

 

その頃にはわたしなりに自分の話し方のスタイルが出来ていた。最後に大声を上げてびっくりどっきりさせるような話し方は三流だ。最後まで声を落として静かに語る。血なまぐさい描写や劇的な演出で煽るのは素人だ。恐怖は日常の異常性にある。聞き手が息をのみ、両腕で自分を抱きしめて眉根を寄せる様子を見るといい仕事をしたような満足感を覚えた。ネタ収集に励んだ甲斐がある。

 

中学、高校時代

中学に入ると出身校の違う生徒が大勢入ってきた。男子と女子は一緒に遊ばなくなり、校則をめぐって教師とぶつかりあう生徒も出てきた。わたしは人並みに交友関係で苦労し、教師とぶつかりあい、小学生時代以上に周囲から浮いた存在だった。しかし語り部としての需要だけは相変わらず、いや、むしろ高まる一方だった。

 

休み時間、移動可能な授業時間、放課後の教室で、クラブ活動中、生徒会役員の活動時間、高校では部活動中。寄ると触ると「はてこさん、怖い話して」とリクエストをしてくる生徒が誰かしらいた。わたしの他にも怖い話を知っている子はもちろんいた。しかし彼らは持ちネタが少なく、多くはクライマックスで大声を出す式の話で長期的な需要に応えることが難しかった。一方わたしはそのころ刊行された「ハロウィン」「サスペリア」などのホラー漫画雑誌の読者ページまでくまなく読んで新鮮なネタ収集に励んでいた。

 

高校の林間学校では学年ごとの出し物が企画され、ここで再度「はてこさんの怖い話」が演目に上がった。当時はお笑い芸人扱いだった稲川淳司が「生き人形」などでシリアスな怪談を披露し始めた時期でもあり、大勢を前に怪談を語るというスタイルが全国的に認知されはじめたころであった。このときは会場内の何箇所かに盛り上げ役の生徒にスタンバイしてもらった。そして体育館の灯りを消し、話の途中で会場の外からわらべ歌を歌ってもらい、非常口のドアを外から勢いよく叩いてもらうという小細工をした。みなさまに少しでも怖がっていただきたい、ぞっとしていただきたい、夜中に目が覚めてトイレへ行きたいけど行けないというあの葛藤を味わっていただきたい。そんなささやかな思いで続けてきた語りの最高潮が高校1年の林間学校であった。

 

しかしわたしはこのあと怖い思いをして怖い話をすることを止めた。

 

怖い顔

わたしの怖い話の売りは臨場感であった。見上げる、振りかえる、手をかざすなど身振り手振りをまじえながら、そして自分自身の表情によって、わたしは物語の中のさまざまな人物を描写した。多くのネタには生死が定かでないこの世のものならざる異形のものが登場する。わたしは異形のもののを見た人物の顔と、異形のものの顔、両方を自分の表情で表現した。

 

「大袈裟にやるのは素人だ」というこだわりは身振り手振りや表情にも一貫してあった。話の肝のぞっとする場面では特に、慎重に静かで微妙な変化だけで恐怖を表現した。つまりぎゅっと顔をしかめたりカッと目を見開いたりはしなかった。けれどもその表情のなかに、その顔をすると必ず悲鳴が上がるという顔があった。

 

自分でその顔を見たことはなかった。やる側のコツは顔の力をすっと抜き、集中して一点を見ながら同時にどこも見ていないぼんやりした視線を作ることだ。「それでね、ふりかえってみたらそこにこんな顔をした人がいて…」とその顔を作る。聞き手がいっせいにヒィィィ!と悲鳴を上げる。もう内心おかしくなるくらい、必ず悲鳴が上がる。

 

あるとき鏡の前でその顔を作ってみた。ゾッとした。その顔は、わたしが以前深夜に子供部屋の窓の外に見た見知らぬ女性の顔にそっくりだった。女性は喜びも悲しみも怒りもない、底なしの穴のような表情で暗がりからじっとわたしを見ていた。家は単線を見下ろす丘の上にあり、子供部屋は二階にあった。

 

鏡に映る自分の顔がいつか見たこの世のものならざる何かの生き写しであることに気が付いたとき、怖い話のネタ集めをしていると足元に何かが擦り寄ってくる感じがして鳥肌が立ったこと、話し終えて帰ろうとすると水から上がったばかりのように体が重くて動けなくなること、そして怖い話をするときだけは誰からも歓迎され熱烈に支持されること、こういったことがすべて一点で繋がった気がした。わたしに話をさせているのはわたしでも聞き手でもないと思った。

 

それから現在まで

このとき以来わたしは人から頼まれてもほとんど怖い話をしなくなった。不可解な体験をしたことを人に話すことはあるけれど、あのころ蓄積したノウハウにふれないよう注意してサラッと話す。絶対にあの顔はしない。こうしてわたしの天与の才は封印された。

 

その後はそれまでと同じように一部で熱烈に好かれ、一部で心底嫌われ、大半の人からは戸惑われながら生きている。何をやっても満場一致で熱狂的な支持を受けることはない。けれどもいまでも連続でシャッターを切ると、ときどき写真にあの顔が写っていることがある。前後の写真からすると不自然な視線をこちらに向けながら。

 

お世辞抜きにたいへん面白い本だったけれど手元に置きたくない。

 

紫の薔薇のみなさまへ もちやま近況

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闘病人であるマイハニーもちやまは先週から休薬期間に入りました。

 

化学療法、いわゆる抗がん剤治療は身体に堪えるものなので、休薬期間はほっとします。やることがあればなるべくこの間に済ませます。

 

前回の休薬期間はもちやまたっての希望で、裏日本を下道で走って出雲大社に詣ることになりました。二泊三日の予定で出掛けましたが、三日目に地元方面で思いがけず大きな地震がありました。予震がいかに神経を消耗させるかは3.11で経験済みなので、帰りを延期して鳥取まで足をのばし、結果的に五泊六日の旅になりました。こうして休薬期間はほぼ丸々旅で終わりました。

 

今回もちおは書斎に詰めて、自宅で仕事ができる開発環境を整えるべく発注、手配に忙しくしています。告知以来、日々今日を生きることでいっぱいいっぱいでしたが、この先しばらく服薬、休薬を繰り返すことを前提に、少し長い目でこれからの生活を考えるようになりました。

 

TEDで敬愛するリーナス・トラバルトがどんなスピーチをしていたか。そこからどんな啓発えたか。図書館で借りたオライリーで得た技術をどう活かそうと思ったか。それを自宅で構築するために何が必要か。

もちおは職場へ近況報告に向かう車を運転しながら熱く展望を語ります。

「あ、いい忘れてた。お見舞いでもらったAmazonギフト券でディスプレイアームを買ったんだけど、よかった?」

紫の薔薇のみなさま、もちろんようございますよね?

 

今日ももちおは紫の薔薇のみなさまからいただいた玄米モロヘイヤパスタとオートミールのお粥を食べ、Amazonから取り寄せさせていただいた水木しげる先生の「河童の三平」の別れの場面を思い出しては涙し、今日から明日への活力を得ていました。

 

わたしもみなさまのご厚意によって奮発させていただいた良書から知恵を得て、この長丁場にうまく腰を据えられるようあれこれ工夫しているところです。

 

いつも感謝しています。みなさまもお体おいといくださいませ。


狸が三平と再会する場面を日々真似しては「シャンペイ…っく…」と涙ぐんでいる。

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あいたくて あいたくなくて ふるえる はてな村の寄合い

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初心に帰って雑記。

 

ちるどさんがJR博多cityのくうてんでオフ会開いてたらしいじゃないですか。去年姫姉様こと堀井みきさんも博多阪急のエルカフェでレンタル姫姉様やってたらしいじゃないですか。そいでこないだ天神に来てたんでしょ、秀吉さん。

 

わたしはネットで知り合った人とはのちのち直接会って話すことが多い。というか、多かった。福岡へ越してからはほとんどない。なので「来るんだ」「来てたんだ」と思うと、会いたいなと思う。

 

が、しかしですよ。ちるどさん、堀井さん、秀吉さんに会って、なに話すよ。”くたびれはてこ”的に。だいたいweb上でもやりとりないしな。くたびれはてことは会いたくないって向こうが思うこともあるじゃんな。あとでどう書かれるか、お互い警戒するかもしれない。はてなハイクオフ会ではこういうこと一度も考えなかった。ハイクはおはようとおやすみとしりとりと大喜利と猫といただきますに着いていけたらだいたいなんとかなるからな。でもはてダ&はてブロ界隈ってある種ゲームオブスローンズさながらじゃん。ぬーん。

 

一昨年ブックマーカー界隈でオフ会開くってなったときは開催地が東京だった。やはり東京は盛んよのう…と思って見ていたら、あっという間に地獄絵図が展開されてその後も裁判沙汰とか金返せとか同人誌の出版停止とかすごいことになっていて、はてな村はおっかねえところだと思った。

 

でもよく聞いてみると非公開で少人数のオフ会開いたり、個人的に会っている人たちはいるのね。そうなんだ!いいなーーー!!…と一瞬思うけれど、メンバーを聞くとまた七王国さながらの政治的立ち位置みたいなものが脳内で展開されて、国も違えば身分も違う自分にはおっかないからとても参加できないと思う。

 

前々からとても会ってみたいブロガーさんがいて、ブログを読みながら会いたくてジタバタする。でも先方はもしかしたら「おのれ、ターガリエン!はてな村20XXの乱で荒らされたわが村の怨み!」みたく思ってる可能性もあるので、大人しくしている。

 

はてこはときどき外に出るけど、もちやまはわたしに誰とも会って欲しくないっていってるしさ。


ブログ飯人生にチャレンジする人に思うこと

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日々30分のブログ更新でお金を稼げるノウハウを教えるという講座やサロンをちょくちょく目にする。そのたびに「申し込もうかな…!」と考える。ブログ飯で食べていけたらいいじゃんな。羨ましい。

 

現在わたしの暮らしは夫の会社の手当と公的扶助、医療保険と貯金、そしてわたしの変な仕事の稼ぎで成り立っている。これらがすべてブログで賄えたら、そりゃあうれしい。

 

去年Googleアドセンスを導入した。このブログは一日のPVが5000くらいの日でも一日の収益は100円ちょっと。「ゆうちょの利子に買ったな!」とささやかにガッツポーズをするくらいだ。道は険しい。いや、いいんですよ。これがあるとブコメでキーキー言われるときも「PVあざーす」って思えるから。でもブログ飯の人たちは、みんなどうやってんの。毎日10万PVくらいあるの?

 

その辺のからくりがどうなっているのかということにも興味があって、ブログ飯エントリーがあると毎回「あ!」と思って見る。しかし集中力が持たない。結果としてお金が入ったらすてきよねえと思うだけで、SEO対策とか目を引く話作りとか、更新頻度とか考えるのが、わたしには面白いことではないからだと思う。

 

要するに、いっけん楽して儲かるみたいで羨ましいけれど、ブログ飯ってわたしにとってはちっとも楽じゃなさそうなので、読んでいて疲れる。きっと向き不向きがある。*1それでも仕事ブログでいくらか工夫してみたけれど、まーもー苦痛だった。嫌になった。しかも出来上がったエントリーがつまらなかった。書いていて面白くなくて読んでつまらないんじゃあやっても意味ないわ。書きたい放題のこっちのブログのほうがずっとアクセスあるしな。*2

 

ブログ飯に漕ぎ出す人、漕ぎ出す人を見送る人

そのようなわけで、わたしはストイックにブログ飯向けブログをカスタマイズしていく人たちにはある種の尊敬の念がある。最近は勤めを辞めてブログ一本でやっていくと宣言する若い人もいる。id:fujiponさんが彼らの将来を真剣に考えるエントリーを書いていた。

fujipon.hatenablog.com

さすが良識ある大人らしい話だ。「えーわたしもサロンに入ろうかな」と浮ついているわたしとは違う。id:fujiponさんとわたしは年齢が近いのではと思っているのだけれど*3id:fujiponさんと違ってわたしには社会的的な信頼をえられる学歴も実績も職歴もなく、それをいまから作る貯金もないので、それもあって考え方が違うのかもしれない。

 

安定した職業だとわかっていても医者や看護師になれる人は限られている。公務員が安定していることはみんな知っているけれど、公務員になれない人もいる。知的、体力的、学費に投資できるお金と時間の点でその種のハードルの高さは違う。なので、安定した職業といえないものであっても、それしかできないという理由で変わった仕事を選ぶ人はいる。わたしもそれで変な仕事をしている。

 

来年高校を卒業する甥太郎と進路の話をしていたときに聞いたのだけれど、ユーチューバーとか、ゲーム実況を仕事にすることを教える学校もあるのだそうだ。そのうちブログ飯を仕事にすることを教える学校もできるのかもしれない。イケダハヤトさんやはあちゅうさんはいずれそういうところで講師として教えたり、教材を作成したりといった仕事もくるかもしれない。 

 

そういうコースを選ぶ人たちを見ていると、代々木アニメーション学院青二塾へ進む人たちを見るような気持ちになる。代アニ、青二、ブログ飯、ユーチューバー。その業界で立派に食べていく人はいる。もちろん目指していても憧れの職につけない人もいるだろう。それは安定した仕事でも同じだ。*4

 

わたしが気になるいちばんの問題は、夢をかなえるまでにどうやって食いつないでいくかということだ。いまの仕事をはじめてみてわかったことは、就職のすばらしいところは仕事が出来ても出来なくても最低限の給料が入ることだ就職しない分野で下積み時代なしに成功できることはそうそうない。

 

自分2.0

fujiponさんのエントリーを読んで思い出した本が二冊ある。まず本田健の「大好きなことをやって生きよう!」。 

これはタイトル通りの背中押しまくり本なのだけれど、この本でいちばん印象に残ったのはこのくだり。 

 

ギャンブルとリスクの違い

 

こういう話を聞くと、なかには勘違いして興奮状態のまま、すぐに会社を辞めようとする人がいます。…
 しかし、そういう人は、どんどん大変な状況を引き寄せてしまいます。なぜなら、彼らは、リスクを冒しているのではなく、人生を使ってギャンブルをしているからです。…
 人生をルーレットの上の玉に任せきる人は、潜在意識では失敗を望んでいます。だからその状態を長期的に続けると、いつか必ず破産の憂き目に遭います。…
 異常な興奮状態で何かをやろうとするとき、それはリスクではなくギャンブルをしようとしているのだと気づくとよいでしょう。
 リスクを冒すときは、頭は冷静です。どういうマイナスの可能性があるか、しっかり見極めた上で勝負に出ているからです。


第4章 大好きなことへの移行期をどう乗り切るか?

 

こういう人はなぜ人生をギャンブルにしてしまうのか。

 

スタンフォード大学の心理学者であるケリー・マクゴニガルは自著「スタンフォードの自分を変える教室」のなかで、人は現在の自分には達成が困難なものごとであっても、未来の自分にはそれが達成可能だと安易に考える傾向があることを指摘している。

これは自分の成長を計算に入れるということではなく、今日手を付けるのが難しい仕事を明日にまわした方が上手くやれると考える傾向のことだ。いまの自分より決断力があり、判断力にすぐれ、体力気力の充実した将来の架空の自分のことをマクゴニガル博士は「自分2.0」と呼んでいる。

 

 次の実験には、ごく近い将来の問題でさえ、人は自分を過大評価する傾向があり、他人事になるとさらに上手にやれて当然だと考えるという興味深い結果が出ている。

 

また、人助けのためにどれくらい時間を提供できるかと訊かれた場合も、学生たちは同じような反応を示しました。仲間の学生の勉強を見てほしいという依頼に対し、学生たちは「次の学期」なら85分くらいなら提供できると答えました。
 これが、本人に対する質問としてではなく、一般的に学生は仲間の勉強をどれくらい見てやるべきだと思うかと訊かれた場合、時間はぐっと伸びて120分という回答でした。ところが、「では、今学期中にあなた自身はどれくらい教えられますか?」と訊かれたところ、学生たちの回答はたった27分でした。


第7章 将来を売りとばす 

 このほかにもいくつかの実験とその結果が出ていたが、要約すると人はとかく将来の自分を他人のように考える傾向があるようだ。そして自分でするのは嫌なことでも他人がやるのだと思うとそれほど苦痛には感じない。結果的に将来自分が苦しむような計画を立てやすい。「明日の朝は5時起き」と決めて、実際5時に目覚ましが鳴ると腹立たしく思うといった経験は誰にでもある。

 

自分の人生を使ってギャンブルをする人は自分2.0、つまり今の自分に出来ないことが出来る将来の自分の活躍を前提に物事を決定する。そして賭けに負けたとき負債を負うことになる将来の自分が現在の自分と同一人物であることを見落としやすい。*5

 

現在の自分に出来ないことが将来の自分には出来るはずだと安易に自分2.0の活躍を期待して計画を立て、わくわくそわそわする様子を、昔の人は「獲らぬ狸の皮算用」といった。

 

狸を獲るのは誰か

ブログ飯の決算収支を見ていると、こんなに狸が取れたらいいなあ、と思う。狸の皮の剥ぎ方、売り方、手取り足取り教えてくれてこの値段なら安いと思う。

 

でも山に入って狸獲る方法を学んでも、山に分け入って狸を見つけて、撃って、獲って、皮をはいで売るところはひとりでやらなければならない。体力もいるし気力もいるし運もいる。これまで狸、獲ったことありますか。「いまの自分には獲れないけれど、一般的にいってこのくらい時間を費やせばこのくらいは獲れるはず、いまは難しいけれど、そのうちこれくらい獲れるかも。まずは退路を断つことだ」という考えが浮かんだら、自分2.0頼みになっているかもしれない。

 

勤めを辞めたあとの自分にはいまの自分に出来ないことが出来るかもしれない。その見込みは確かにある。けれども出来るようになるまでのあいだ、今の自分でどうやって食いつなぐかのプランを持つのは妥当なことだと思う。

 

狸しか獲れない人は狸を獲るしかない

わたしは成人して後、人生かけてやりたいことができたが、それは1円にもならないことだった。それでやりたいことをしながら食べていくための仕事をいろいろやった。お金はなかったけれど、自分で納得しての貧乏だったので「やりたいことを続けるために自分で選んだことだから仕方がない」と乗り越えられた。あのとき就職しておけばよかったとは思わない。

 

ブログ飯で食べていくまでのあいだの貧乏を誇りに思えるなら、やればいいと思う。安定した職業なんて究極的にはない。身体だって頭だっていつどうなるかわからない。でも本当にそこまでやりたいことなのかどうか、ちょっと考えてみてほしい。

 

去年のいまごろ、このブログのPVは一日3~5くらい、10人に満たない人がときどきのぞきに来てくれているだけだった。でも書くのが面白いから続いた。そんな風に誰も見ていなくても、お金にならなくても、ときに読者にキーキー言われても、ひとりで面白がってほくほくできるほどブログを書くのがすきですか。ひまさえあれば狸を探しに山に入るのがすきですきで仕方がない。そういう人はがんばって人里を離れ、前人未到の山奥へ分け入ってみたらいいと思う。

 

喝采を浴びて里を後にしても山奥では一人だ。地味に狸を探し回る日々がどんなものかを知るには、狸獲りを生業にしている人たちのブログの栄枯衰退を見たらいいと思う。狸獲りで身を立てている人は狸を獲る以外、生きていく道が無い人もいる。自分がそっちの人間なのかどうか、よくよく考えてみてほしい。

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*1:phaさんが「しないことリスト」のなかでプログラムを学んでみたけれど、これで食べていくには会社員時代並みに働かなければいけないと思ったので自分には向かないと思ってその道を断念したと書いていた。でも同じ仕事でも自宅でする方がずっと楽だし打ち込めるという人もいるよね。

*2:仕事ブログでもお客様に評判がよかったのは書きたい放題書いたやつだった

*3:違ったら申し訳ございません。

*4:もちおは医大を受験して落ちた。

*5:このような傾向は若者が老人を見ても自分が将来同じように老化を経験することを感覚的に理解できないことにも通じる。

あなたに会いたくて@はてな村

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個人的にやりとりしたことがない人の中で会ってみたい人を考えました。

 

はてなハイクではイベントごとに参加するオフ会がよくあり、そこで前から会ってみたかった人に会えることがちょいちょいあった。オフ会に参加しない人でも日頃☆をつけあって、スタコメでやりとりして、モノの受け渡しの約束をして個人的に会うこともあった。でも手斧で戦うブクマ族含めてはてなブログ界隈ではそういうのないよね。

 

まだやりとりがない方で、くたびれはてこ名義でいまお会いしたいのはこちらのみなさん。わたしは先方のファンだけど先方はくたびれはてこ名義で会いたいと書くと書いただけでびっくりされそうな人、ブログを書いている方でもハイク中心に活動している人は別にしました。あとアイコンで覚えているのでidわからない人も書けなかった。

 

ブクマ界隈

id:feitaさん id:sabacurryさん id:vlxst1224さん

トリオで増田オフをお願いしたい。そしてお気に入り増田、思い出の増田、名作増田について語らってほしい。次点でid:linuxdiaryさん。カルテットじゃない理由はid:linuxdiaryさんにはどう絡んだらいいかわからないからです。

 

こちらのみなさんは昼間も行動しているけれど、わたしは夜行性ブックマーカーが増田をブクマする様子を見るのがすきで、投下されたばかりの増田に夜行性ブックマーカーの見慣れたアイコンがついているとうれしくなる。

 

増田でいちばん会いたいのはこれを書いた増田。

文体がすき。何度も何度も読んだ。プリントアウトしてさらに読み返したい。

 

id:xevraさん

わたしもだいぶメンヘラメンヘラいわれてきたけどなんか憎めない。運動と瞑想について聞きたい。これ書いたの、わたし。

id:wattoさん

しいたけ。正直ブクマもブログもほとんど覚えていないけれど、遠い親戚のように思っている。

 

はてブロ界隈

id:fujiponさん

居住エリアと世代が近そうだしぜひ。JR博多cityあたりでどうですか。

 

id:orangestarさん

少人数オフでお茶をご馳走したい。そして落書きするところを眺めていたい。

 

id:honeshabriさん

有料レンタルしていたら申し込む。年間200冊本を読んだら会ってくださいますか。

 

遠くから見つめるだけでいい

id:yoppymodelさん

こちらにおもしろがってもらえそうなコンテンツが何もないので*1大人数のオフで遠くから眺めたい。小倉のストリップ劇場あたりでどうですか。

 

id:ikkou2otosata0さん

はいね先生のコンディションを乱したくないので、日頃の感謝を込めて美味しいものだけごちそうしたい。なんなら送らせていただくだけでもいい。もちおの免疫をずいぶん向上させていただきました。白衣の天使はいね先生のご活躍を今後も影ながら応援させていただきます。

 

提供できること

わたしはみなさんに一方的に関心を持っているけれど、こちらが提供できそうな話題で楽しんでいただけそうなものがないのよね。長く話せることといったらラブドール関係と森高千里と聖書とロシア文学の話でしょうか。あと変な仕事のこと。それとも怖い話、する?

 

天神、博多周辺の美味しいもの屋さんもそんなに知らない。中洲のお姉ちゃんがいるお店もぜんぜん知らない。ただ顔見てお茶飲んでお話してみたい。空想するのは自由だもんね。お暇なら、来てよね。

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*1:あるとしたら変な仕事のことくらいかしら。しかし変な仕事業界のことはごく狭い範囲でしかしらない。

3分でお粥になる食べやすいオートミール

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小麦&白米離れがすすむ我が家で最近オートミールを重宝している。

 

オートミールへの憧れと失望

ロシア文学を読んでいるとサモワール*1が欲しくなるし、オートミールが食べたくなる。ロシア文学にはまっていたころわたしはさっそくクェーカー印のオートミールを買ってきて食べた。

でもオートミールってざらっというかじゃりっというか、ぼそぼそしているのにぬるっとしていて味がなくて、とくに美味しくないんだよね。クラバートではご馳走扱いだったけれど、風にのってきたメアリー・ポピンズ でジェインが「パンケーキのほうがいい」といっていた理由がよくわかった。おかずもどうしていいかわからない。

 

オートミールの栄養価 

しかしオートミールは栄養価が高い。食物繊維は玄米の3.5倍、鉄分は2倍、カルシウムは5倍*2。gあたりのカロリーは白米より高いけれど、お粥にすると水分量が多くなるのでそんなにたくさん食べなくても満腹になる。結果的に摂取量は少なくなるので総カロリーは低い。食後の満足度は食パン1枚を100%とすると209%と茹でジャガイモに次いで高い。*3

 

夫の食が細くなっているので食事は少量で栄養価の高いものを出したい。オートミールが美味しければ食べるのになあ…と思っていたところ*4、こちらのオートミールは日本人向けの味で美味しいと評判だった。これをお見舞いにいただいた。

本当に美味しい。

 

やわらかさ、舌触りは白米のお粥と遜色ない。癖のない味で和風でも洋風でもいける。水で煮るだけであっとうまにやわらかくなるので、食事の支度が出来ていない外出帰りや朝ご飯にとっても便利。Amazonでは現在一袋300gで611円~354円。公式の目安は一食30gなので10食分になる。安値で買えば茶碗1杯のご飯が40円くらいなので白米と変わらない。

 

オートミールのお粥

 水にオートミールとその2~3倍量の水を入れて鍋にかける。今回は干し椎茸を戻さずに割り入れた。そのまま弱火にかける。火加減は好み。なべ底にはりつかないようにときどきヘラでかきまぜる。

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すぐにトロリとやわらかくなる。

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これに好みの具を入れる。梅干やジャコ、ほぐした焼き魚、刻んだ漬物で和風に、ごま油と茹でササミ、ニラ、葱と生姜に溶き卵で中華風に、チーズ、バター、ベーコンにミックスベジタブルで洋風にとさまざまなアレンジができる。

 

この日はカレー粥にした。

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本当に美味しい。そしてお腹にやさしい。

もちおはいま消化の悪いもの、血糖値を急上昇させるものを食べると、その場で白目で青息吐息に脂汗で寝込むことがある。オートミール粥は消化がよく、血糖値の上がり方もおだやかなようで食べて美味しく胃腸にやさしく、食後は身体がすっきりすると好評。

 

さいきんお米は雑穀入り発芽玄米を炊くように心がけているのだけれど、下準備がいろいろあって切らすとたいへん。そんなとき十割そば日食 プレミアムピュアオートミールモロヘイヤ玄米パスタ玄米もちが大活躍する。ほんと救われる。食事を簡単にすませたい方、減量ダイエット目的で食べる人もいるそうなので、お腹をすっきりさせて減量したい方、そしてロシア文学とクラバートを読んでオートミールに憧れのある方、ぜひおためしになっていただきたい。お見舞いありがとうございました。

 

 

お菓子に入れたり自家製シリアルにしたりもできるよ。

オリーブオイルで揚げおろし餅風に焼いて大根おろしと柚子ポンで食べます。

 

ゆで時間 3分でさっさと出来る。ひらぺったい麺でヨモギのような味。

蕎麦はもちろん蕎麦湯が美味しい。もちおはトロロ蕎麦にすると喜ぶ。

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*1:ロシア紅茶を淹れるためのヤカン。小説のなかのロシア貴族は四六時中散歩をするか、サモワールを囲むかしている。

*2:オートミールのカロリーや栄養価について | オートミール専門ページ | ピントル

*3:もっとも満腹になりやすい食品はどれだ!選手権 | パレオな男

*4:不味くても「体にいい」と知るとわたしは食べちゃうけれど、もちおは断固食べたない。

ブログを書いて金銭以外で儲かったこと

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yahooジオシティーズ時代

わたしがwebにテキストを書き始めたのは2000年の春、場所はyahooジオシティーズのHP作成スペースだった。

 

webにふれた当初、わたしはかなり封鎖的な環境で生きていて、わたし自身とわたしの表向きの立場には乖離があった。また自分を取り巻く限定された人間関係に息詰まりを覚えていた。

 

それでわたしが思っていること、作ったものを、自分の年齢や立場を抜きにして、自分を取り巻く人間関係と無縁な誰かに見せたかった。webでは出したものを批判されることはあっても、書いたものを修整されたり、作ったものを壊されることもないしね。

 

最初のうちはハンドルネームで呼ばれるわたしにしがらみがなかった。でもわたしはオンラインとオフラインをはっきり分けるどころか、オンラインで知り合った人とは老若男女、そのままどんどん親しくなった。メールを交換し、電話をかけあい、贈り物や手紙をやりとりした。*1遊びにきた人たちを地元の観光地に案内したこともあった。それらの交友は表向きの立場としてはギリギリのラインだった。

 

やがてやましくなった。お堅い仕事に就きながら夜遊びをしていたけれど、昼の顔を知らせざるを得ないくらい親しくなったような感じ。結局HPは開設4ヵ月で「生活がおろそかになる」と断腸の思いで封鎖した。*2

 

アフィリエイト時代

2003年にアフィリエイトというものを知り、日記を書きはじめた。書いたところは書き始めた当初レンタル日記サービスだったと思うんだけど、知らない間にブログサービスに移行していた。そんなわけでブログという言葉の意味も知らずに気がついたらブロガーになっていた。

 

アフィリエイト目的で日記を書きはじめたときは、完全にアフィリエイトに特化するつもりだった。でも結局思ったことをあれこれ書くようになり、そこで人と知り合う。どんどこメールをやりとりして、手紙や贈り物を送り合い、やがて遊びに行く。家に呼ぶ。結婚式にいく。そうしてオフラインでの立場を伝えざるをえないところまで来る。

 

こういった事情で当時書いたものはいまよりずっと歯切れが悪かった。ジオシティーズデビューしたころのように息抜きに書きたいことを書ける場所ではなく、かといって私的なことを上手に伏せることもできなかった。だって日頃思うことは日常に直結しているからね!

 

自分自身が思うことと、立場的に濁さざるを得ないことの間で板挟みになり、短いテキストを書くのに何度も書き直し、時間ばかりとられた。時間をとられる割に当初の目的だったアフィリエイトもパッとしなかった。でもなんだかんだ書いてしまう。

 

はてな時代

2009年の終わりに、わたしは一生かけてやっていくつもりだったことを考えに考えてやめた。それまではwebであっても書くわけにいかないことがたくさんあった。でもこれからは、わたし自身が思っていることを思ったように書ける。あとで読んだ人に会ってもやましいところはない。

 

わたしはたまたまその少し前にはてなダイヤリーに登録していた。よし、はてなダイヤリーに書いたれ。というわけで、2009年末に書きたいことを書きはじめた。すぐに手斧がじゃんじゃん飛んでくるようになったので、一年もしないうちにはてな村が嫌になって、はてなハイクに籠った。

 

2015年までほとんどブクマもせず、おはようからおやすみまでハイクに籠っていた。ときどきチラッとダイヤリーを書いて、はてなブログは去年の夏まで隠れるようにこそこそ書いていた。でもいったん表に出てからは、どうせならばんばん露出するよ!と思ってTwitterも再開し、現在にいたる。

 

わたしにとってのブログの価値

いまは無理に背負っている立場はない。アフィリエイトがパッとしないことは10年やってよくわかった。それでもまだブログを書きたい。

 

わたしは「オフラインで言い尽くせないこと、あれこれ思ったことを誰かに話したい」という一点でブログを書いている。「聞いてほしい」じゃなくて、「話したい」。賛同してもらわなくていい。相槌や返事もなくていい。結果的に人と知り合うこともあるけれど、それは旅先での出会いのようなもので、旅そのものの目的ではない。

 

わたしは自分だけが読む日記とは別に、知らない誰かの目に触れるところに自分の考えを書き残したい。それでブログを書いている。「ブログが書けて、お金も入る」というのは魅力的だ。でも「これから二度と不特定多数に向けてテキストを書かないなら、一生困らないだけのお金をあげるよ」といわれても、「よろこんで!」という気持ちにはなれない。そりゃ命がかかっていれば応じるかもしれないけれど、あの手この手でなんとか裏をかこうとすると思う。

 

昔はこういうことって作家にでもならない限り難しかった。新聞の投書欄とか、ラジオで読まれるハガキのほかは、同人誌でも刷って手売りするしかなかった。いい時代に生まれたと思う。

 

自分が書いたものでも時間を置いて読み返すと「へえ」と感心する。夢中になって読む。もちろん「あちゃー」と思うこともある。星もブクマもつかなかったエントリーでもすっかり忘れていて、他人事のように面白く思うこともある。でもSEOとかPVとかアフィリエイトに特化して書こうとすると、思うように書けない。

 

ブログ飯とかランキング何位とか、書籍化、kindle化とか見ると、それが有能さの指標に思えて羨ましくなる。でも自分にとって儲けが大きくないとやる気が出ない。そしてわたしにとっての儲けとは、そのとき思うことを、あとで自分が読んでも面白いように書けたかどうかだ。そうやって自分が書き残したものが増えていくのが最大の儲け。

 

そしてそれを一生会うこともない誰かが、一生行くこともないどこかで読んで、共感を覚えたり頭がこんがらがったり、うれしくなったり怖くなったり気持ちが動くことがボーナス。そういうことがあったとわかるとブログ書いてよかったな!!!得した!儲かった!と思う。Twitterを眺めていて、意外なところでリツイートされているのを見ると「こんな人が読んだのか!」って小躍りする。

 

そういう意味で、はてなではだいぶ儲かったから、これからもほそぼそと書き続けていこうと思う。儲かりまっか。ぼちぼちでんな。

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*1:キリ番をとった人のリクエストに応じて絵を描いて郵送するという企画をやっていた。

*2:そこを追ってきたのがもちお。

美術館の図書室はいつも穴場

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週末、夫が今年はじめての麻雀をしに出かけたので、わたしも人と会うため車で出かけた。緊張したので帰りにどこかでお茶を飲もうとカフェを探し、通り道にある福岡市美術館に寄った。美術館にはたいていカフェがある。そして無料か、安い駐車場もある。

 

わたしは美術館の図書室がすきなのでカフェに入る前に図書室に入り、E.L.カニズバーグ*1の「ジョコンダ夫人の肖像」を読んだ。

 

学生時代通学路に美術館があり、学校の行帰りによく立ち寄った。常設展を見て図書室で本を読むとお金をかけずに楽しい時間が過ごせる。以来美術館の図書室をのぞくのがすきになった。大判の美しい本、まったく知らない芸術家の本、「これも美術に入るのか」と驚かされるような本がいろいろある。そしてどこの図書室もとても静かだ。

 

福岡市美術館の図書室は小さい。でも天井が高く、窓から見える芝生、石、建物と、こちらに背を向けているブロンズ像のバランスがすばらしい。景色自体が椅子に座って眺めるための大きな展示物みたいだ。*2館内撮影禁止なので画像でお見せできないのが残念。そして椅子がいいのでゆっくり本が読める。

 

「ジョコンダ夫人の肖像」は実在したダヴィンチの弟子とダヴィンチを中心に「モナリザの微笑み」の謎を描いた物語。カニズバーグが描くダヴィンチと弟子のサライは、司馬遼太郎が描いた秋山兄弟に負けず劣らず活き活きとしている。

 

この日読んだ範囲で印象に残ったくだり。

 

「おまつりというものは、」彼はサライにいって聞かせた。「稲光りみたいなものだな。それには歴史もなければ未来もない。ほんの一瞬、あらゆるものを光り輝かせる。それで終わりだ。そのつかの間の光のほかには何も残りやしない。稲光りそのものは、後世の人間が跡をふもうたって何も残ってやしない。野外劇場はね、サライ、芸術家にとっては、稲光りみたいに荒々しく、無責任に、時間の中をジグザグにつっぱしるチャンスなのさ」

 

「そうね。後世に残る舞台芸術って伝説になっても共有できないものね」と思い、しばし感慨にふけった。(このあとはてなを見て「プロブロガーをゆるすなの乱」 関連エントリー*3を見たら、「これもひとつの稲光ねえ」と思った。)*4*5

 

本の貸し出しはできないので、途中まで読んでしおりを挟んで図書室を出た。貸し出せないということは他の人が持って帰ることもないということだから、次回しおりのところから続きを読めばいい。楽しみだ。

 

 カフェでお茶を飲む。ここがまたロケーションがすばらしい。窓から大濠公園の大きな池と、まわりををそぞろ歩く人たちが見える。ここからの眺めはハノイの市街地に似ている。福岡市民はハノイへいったら「大濠公園みたい!」ときっと思う。

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手紙を書こう、本も読もうとあれこれ持ってきたけれど、ぼんやり池を眺めているだけで終わった。帰りにミュージアムショップでお世話になっている方へのプレゼントを買った。

 

実用性のない本をゆっくり読み、広々とした公園を眺め、気の利いた小物を買ってのんびりすごした。美術館はくつろぎまくれていいところ。福岡市美術館は9月に改装予定だそうだけれど、この余白たっぷりな落ち着いた雰囲気はぜひ残してほしいと思う。企画展にもいくから、お願いね。

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*1:児童文学の名手。代表作に「クローディアの秘密」「魔女ジェニファとわたし」など。

*2:実際そうなんだろうね。

*3:プロブロガーどものテロ行為を絶対に許すな! - xevra's blog

*4:自分が書いた去年、一昨年くらいのエントリーでもはてな界隈の論争関係のものってあとから見るとちょっとぽかーんとする。来年、再来年にこれらの周辺エントリーを見る人はなぜここまで白熱したのかわからないかもね。

*5:プロブロガーという言い方は語弊があるから、何かいいほかの名称はないものかしら。ゴールドラッシュブロガーとか。

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