アメリカ帰りの加藤智久さんという英会話教材会社の会長さんが、自由の国アメリカをおかしな方向に解釈しているのを読んだ。
*1会長職ともなると率直に意見してくれる人が減るのかな。この人は嫌悪感を抱くことと差別することの違い、思想の自由と偏見を容認することの違いがわかっていないんじゃないかと思う。*2
おばちゃん × おばちゃん + カラス
昔わたしが育った町に鷹匠のようにカラスを手乗りにして飼っているおばちゃんがいた。おばちゃんは別のおばちゃんと二人で暮らしていたが、カラスのインパクトが強すぎて、おばちゃん×おばちゃんというカップリングについて思うところはなかった。近所も「そういうもんだ」という感じでふつうにしていた。
町にはほかにも自分の家とは違う人が大勢いた。インテリ、ヤクザ、障害者、金持ち、貧乏人、大家族、一人親、一人住まい。おばちゃん同士で暮らしている家はそういう「うちとは違う家」の一つだった。
キリスト教と同性愛
後にわたしはキリスト教に強く感化され、同性愛は神に逆らうものだと思うようになった。カトリック幼稚園からはじまってマザーテレサに影響をうけ、当初感激したものとは違う方向へ針がふりきってしまったのだった。
結果的に直接同性愛者に説教したことはなかったが、新宿育ちの父の奥さんにはゲイバー勤めの友人が大勢いた。いろいろな話を聞いたけれど、個人的にはいい人たちだと思った。
こんないい人が自分の行いの悪に気づいていないなんて気の毒だ、と思っていた。それを差別だなんて思わなかった。同性と結婚?結婚は神が男女のためにとりきめたものだよ。同性間の性関係?それは自然に反することだよ。ああ、神が彼らの目を開かれ、彼らを救ってくださいますように。
思想を尊重するとは人権侵害を許容することではない
いまわたしはキリスト教に対して当時とは違った見方をもっている。*3
でもかつての経験から、同性愛に強く反対する人たちの気持ちは少しわかる。なかには酷く過激なことをやる人がいる。ああいう人らの大半は悪気がない。瀕死の重病患者を強制入院させなければと思うようなあの切迫感。それが強迫観念になる日々。
その人たちにキリスト教の教えを変えろ、捨てろと強制することはできない。そもそも会社が信教の自由や個人の思想を「禁止」するなんて不当なことだ。
しかし人種的偏見、顕著な女性蔑視を神の教えとする思想を、安易に「人それぞれ、好き好きだ」といってすませるのは寛容さのあらわれではなく、当事者意識の欠如だ。矛先がけして自分には向かないとわかっている差別から目をそらすのは簡単だ。
僕もとくにどうとも思わない。
「ふーん。」でしかない。
「ふーん」では済まない事情が当事者にはある。
「あとで困るのはあなたですよ。差別はあなたにとってリスクが高い。だからわたしはやらないのです」と涼しい顔でいっていられるのは、窓から石を投げこまれ、身体に火をつけられないからだ。正義の名の下にそうした加害を受けている人に対して「あなたに加えられた加害はゆるされるべきことではない。けれど、あなたを人として扱わないという彼らの考えは尊重したい」なんていえるだろうか。差別を許容しながら中立でいることは出来ない。
ユダヤ人弁護士のエピソード
「ユダヤ人を強制収容所送りにしろ」と発言して裁判にかけられた人物をユダヤ人弁護士が弁護したというエピソードがある。
「あなたのその意見は心から軽蔑する。
しかしあなたがそれを言う権利は、命をかけて守る。」
これは差別主義者のクズな思想を守ってやるという意味ではない。「あなたがそれをいう権利」とは同胞が自由に発言する権利、生存する権利でもあり、彼はその権利のために命懸けで戦う覚悟があると言っているのだ。
不快なものに嫌悪感を抱くことは誰にも止められない。しかし差別するとは不快に思うということではない。好意があろうがなかろうが、人として当然認められるべき権利を侵害してかまわないと考えること、それが差別だ。
「そのほうが幸せだ」と妊娠出産する権利を障害者から奪うこと、「神の裁きにあう」と法的に認められていても同性同士の結婚を阻止すること、「男が、女が、こんな仕事に就くのは不幸だ」と就労やライフスタイルを認めないこと。これらはみな差別心による愛情と親切心から出た加害行為だ。
LGBTを差別するとはLGBTを自分と同じ尊厳と自由をもつ人間として認めないということだ。人がもつ属性を根拠に相手を人間だと認めないこと、いったいそれを許容するどんな余地があるというのか。