本屋には新書を探しにいくけれど、図書館へは名作を探しに行く。
兄は「中学校の図書館のSFはすべて読んだ」といっていたが、果たして入学してみると図書館のSF小説の貸し出しカードにはことごとく兄の名があった。これは土俵をかえるしかないと思った妹は児童文学ジャンルに乗りだした。
こうして「ナルニア物語」シリーズなどを読み進めるにつれ、ファンタジー好きな先輩後輩と知り合い、図書館にたむろして中学時代をすごした。
大人になってからは図書館の本をもちおとまわし読みした。ムーミンシリーズを二人で読んだ夏以来、町でムーミングッズをみかけると「あれを描いたのはトーベか弟か」と二人で審議する。灯台を見ればムーミンパパの狂気を思い出し、霜がおりた草原を歩けばモランを思い出す。仕事に疲れたら「わたしだって遊びたいわ」ともちおはムーミンママの真似をする。
寝込んでいた間はもちおだけが図書館へでかけた。妻がロシア小説にはまっていたあいだ、もちおはロシアの文学全集を手当たり次第に借りてきた。ドストエフスキーとチェーホフは特別すきだったけれど、ロシア小説であればなんでもよかった。「ムツェンスク郡のマクベス婦人」や「現代の英雄」のスリルとサスペンスには病床の憂いを忘れた。
短い話はやはり二人でまわし読みをした。トルストイの短編小説に出てくる孤島に住む三人の老人の話は我が家で大人気だった。手を繋ぎ、夜の海を猛スピードで渡ってくる三人の老人の「あなたも三人、わしらも三人、おあわれみを!」という祈りの言葉を早口でいう遊びが二人の間で流行った。
子供の頃は星新一、「ナルニア物語」や「ゲド戦記」、ミヒャエル・エンデやエリナー・ファージョン、トールキン、トーベ・ヤンソン、そして宮沢賢治の本をみんなほしいと思った。谷川俊太郎の詩集も、竹宮恵子の「私を月まで連れてって!」や萩尾望都の「ポーの一族」も、返さないで持っていられたらいいのにと思った。
でも大人になって子供部屋を出てしばらくしてから、壁一面の本棚に囲まれて暮らすより、図書館のそばで暮らしたいと思うようになった。壁一面なんかじゃすぐに埋まってしまう。それに、わたしが一人で本と向き合える時間は短い。誰かがその本を読んで、どこかでその話をいっしょにするほうがずっといい。
だからムーミンは買わなかった。ロシア文学全集も買わなかった。太宰治全集も、夏目漱石全集も買わない。でも全集は、そして名作のシリーズは、一つの町に一セット、かならずそろっていてほしいと思う。
図書館はそうやってみんなで物語を共有するところだと思う。推理小説も、自伝も、絵本も、紙芝居も、画集も、図鑑も、数え切れないほどの人の手に渡りながら、心に残っていって欲しい。
本屋さんじゃ、だめなんだよ。
いま売れる本だということは時の試練に耐える本だという証拠にはならない。
違う時代の違う場所で、違う生活をしていた少年少女が、そして子供と大人たちが夢中になった本が、図書館にはある。
時を越えて時間差で同じ興奮を味わえるすばらしいメディア、それが図書館だと思う。
もちろん必要よ。
いろいろ便利な使い方もあるしね。